商会の契約罠
王都東区の薬房に、解毒薬が届いた。
南門では止まっていた馬車が一台ずつ動き出し、下町の井戸では夜更けにもかかわらず、桶を抱えた人々が水音に小さく歓声を上げたという。
その報告を聞いた時、リディアは初めて椅子に座った。
玉座の間から続く監査室。古い会議机の上には、未処理契約の束が壁のように積まれている。宰相府の文官たちは眠気で目を赤くしながらも、誰も帰ろうとしなかった。
「東区薬房、仮接続完了。追加の止血符も搬出済みです」
若い女性文官――先ほどリディアに「背負わせるのですか」と言った彼女が、記録板を抱えて報告した。
「ありがとう。名前を聞いても?」
「ミラです。宰相府第三記録室所属です」
「ミラさん。薬房契約の写しは、薬房組合と宰相府の両方に残してください。片方だけだと、また誰かの都合で消えます」
「はい、監査官殿」
監査官。
その呼び名には、まだ慣れない。
けれど、便利な通訳と呼ばれるよりは、ずっと息がしやすかった。
リディアは冷めた茶を一口飲み、次の契約束に手を伸ばす。
その時、扉が叩かれた。
「失礼いたします。ヘルマン商会、契約部門代表のダリウス・ヘルマン様がお越しです」
室内の空気がわずかに固まった。
ヘルマン商会。
南門補給馬車の荷主の一つであり、王宮の食料・薬材・紙束・インクまで納める大商会。契約核に浮かんだ印の名でもある。
リディアは羽根ペンを置いた。
「お通しください」
入ってきた男は、灰色の外套を一分の隙もなく整えていた。夜明け前だというのに、靴の泥さえ払われている。年は四十前後。笑みは柔らかいが、目だけが帳簿の数字のように冷たい。
「リディア・クラウス様。まずは王都の応急復旧、見事なお手並みでした」
「ありがとうございます。ご用件は」
リディアが椅子を勧める前に、ダリウスは一枚の契約書を机へ置いた。
「復旧が行われた以上、履行再開確認をいただきに参りました」
「履行再開確認?」
「ええ。南門補給契約の第九条です。王宮側の責任により契約魔法が停止し、商会側の荷が一刻以上留め置かれた場合、王宮は遅延補償を支払う。ただし王宮監査署名により履行再開が確認された時点で、留め置き中の保管費・護衛費・魔力封印維持費は即時精算される」
室内の誰かが息を呑んだ。
ミラの顔から血の気が引く。
「待ってください。南門の馬車は、孤児院への粉袋や井戸修理部材も載せていました。だから一括で通したのであって――」
「その通りです」
ダリウスは穏やかにうなずいた。
「リディア様のおかげで荷は動きました。つまり、王宮監査署名による履行再開が確認された。契約は正しく働いたのです。ですから、即時精算を」
彼は二枚目の紙を出す。
金額を見た文官たちがざわめいた。
薬房三年分の予算に近い。
「この額を今払えば、東区薬房の追加仕入れが止まります」
ミラが震える声で言った。
「西水門の青銅弁も買えません。孤児院の粉代も……」
「契約ですので」
ダリウスは困ったように眉を下げた。
「善意で契約は曲げられません」
その言葉に、リディアの胸が小さく痛んだ。
正しい言葉だ。
けれど、今この場では、刃の向きが違う。
リディアは自分の署名を思い出した。薬を動かすため。水を戻すため。馬車を通すため。必要だと判断した。
その署名を、罠として使われた。
「……私が読めなかった」
思わず漏れた声に、ミラが顔を上げる。
「監査官殿」
「南門契約を急いだ。生活を優先した。だから第九条の精算条件を後回しにした」
悔しさで、指先が冷える。
王子に軽んじられた時とは違う痛みだった。
人を助けるための判断が、別の誰かの首に縄をかける。その怖さを、リディアは今、はっきり知った。
だが、うつむいている時間はない。
リディアは契約書を手に取った。
「確認します」
「もちろん。古代語翻訳官であられるあなたにこそ、正しく読んでいただきたい」
ダリウスの笑みが深くなる。
リディアは本文ではなく、余白を見た。
羊皮紙の端。署名欄の周囲。魔法契約にだけ残る、肉眼ではかすかな灰色の線。
古代語は、文字だけで契約を作るわけではない。
どの順番で光るか。
どの署名が先に沈黙するか。
何を「書かなかった」ことにしているか。
そこにも、意味がある。
「第九条は確かに存在します」
「では」
「けれど、発動順が変です」
ダリウスのまぶたが、ほんの少しだけ動いた。
リディアは契約書を机に広げ、燭台を近づける。
「第九条の遅延補償は、商会印、王宮購買局印、南門管理印の順に発動するはずです。ところが今朝、契約核に浮かんだ光は違いました。最初に沈んだのはヘルマン商会印ではありません」
彼女は余白の灰色線を指でなぞる。
「ここ。消された署名欄があります」
「古い様式の飾りでは?」
「いいえ。飾りなら左右対称です。これは片側だけ深い。上位署名が削られています」
ミラが記録板を強く抱きしめた。
「上位署名……?」
「ヘルマン商会は、自分たちが主契約者であるように見せています。民には『王命の荷』、王宮には『民間の同意済み契約』、隣国には『正式譲渡予定の補給権』。三方向に違う説明をしている」
ダリウスの笑みが消えた。
「言いがかりです」
「では、契約核に読ませましょう」
リディアは羽根ペンを取り、空白の署名欄の下へ古代語で一文を書いた。
――沈黙した名は、先に名乗れ。
契約核の青い光が、監査室の床を走った。
羊皮紙の余白が熱を持つ。削られたはずの署名欄に、黒い文字が浮かび上がった。
ヘルマン商会代理印。
そのさらに上。
アルヴェン公爵家暫定保護契約。
室内が凍った。
「アルヴェン……隣国の?」
宰相がかすれた声で言う。
ダリウスは一歩下がった。
逃げようとしたのではない。むしろ、用意していた舞台に役者が立ったことを確認するような動きだった。
「さすがです、リディア様」
彼は初めて、商人ではなく使者の顔で笑った。
「そこまで読まれたなら、こちらも次の条項へ進めます」
「次の条項?」
契約核の光が赤に変わる。
机の上の未処理契約が、風もないのに一斉にめくれた。
浮かび上がった古代語を、リディアは声に出さずにはいられなかった。
「『王国契約核が正統な読み手を欠く場合、真王配候補に代位履行権限を仮付与する』……」
言葉が喉で止まる。
真王配候補。
その次に現れた名は、誰のものでもない。
リディア・クラウス。
ミラが記録板を落とした。
宰相が立ち尽くし、第二王子エドガルドは扉の向こうで蒼白になっていた。
リディアだけが、赤い光の中心で契約書を見つめていた。
商会の罠を破ったはずだった。
なのに、契約はもっと大きな罠を開いた。
王子の婚約者ではなくなったばかりの自分が、王国最大の契約に、勝手に名を刻まれている。
ダリウスは深く一礼した。
「アルヴェン公爵家より、正式なお迎えが参ります。監査官殿――いえ、真王配候補リディア様」
その瞬間、契約核が王都全域へ赤い鐘を鳴らした。




