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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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ep05_throne_public_withdrawal

玉座前の公開撤回


「リディア・エルンスト嬢を、ただちに玉座の間へ」


 王宮の使者は、そう告げるだけで息を切らしていた。


 朝は契約魔法が止まり、昼には薔薇印の署名が王国の全台帳から見つかった。夕刻、王宮はようやく、問題が「辞表を出した女ひとりのわがまま」では済まないと認めたらしい。


 ただし、認め方は相変わらず間違っている。


「命令書ではありませんね」


 リディアは差し出された羊皮紙を受け取らずに言った。


 使者の手が震える。


「へ、陛下のご招集です」


「招集なら、招集の形式で。私はもう王宮翻訳局の職員ではありません。婚約者でもありません。無給で呼びつけられる理由がありません」


 隣でディートハルト公爵が、わずかに笑った。


「では、私が証人になろう。リディア嬢は独立監査人として玉座の間へ入る。報酬、身分保障、発言保護、以上三点を王印で保証すること。なければ帰る」


「そ、そんなことを、今から……」


「契約魔法が止まっている王宮で、古代語を読める唯一の人間を無保証で呼ぶ方がどうかしている」


 使者は青ざめ、走り去った。


 リディアは自分の指先を見た。震えていない。二日前なら、王宮から呼ばれただけで胸が痛んだはずなのに。


「怖くないのか」


 公爵が低く尋ねる。


「怖いです」


 リディアは正直に答えた。


「でも、怖いからこそ条件を先に読むべきだと、ようやく覚えました」


 十分後、王印つきの保証書が届いた。


 玉座の間には、貴族、神官、各ギルド長、そして息を呑んだ宮廷官僚が詰めていた。床の魔法陣はまだ黒く沈黙し、天井の契約灯は消えたままだ。


 第二王子ユリウスは壇上に立っていた。隣には聖女ロゼリア。彼女の袖口には、昼に見た薔薇印と同じ刺繍が光っている。


「リディア」


 王子は、いつものように名を呼んだ。


「すぐに復旧しろ。お前の処分は、その後で考える」


 ざわめきが走る。


 リディアは一歩前へ出た。


「殿下。私に対する処分権限は、先ほど陛下の保証書により停止されています」


「何?」


「また、復旧の前提として、公開撤回が必要です」


「撤回?」


 ユリウスの顔が歪む。


「何を撤回しろと言う」


 リディアは胸元から三枚の写しを取り出した。


 一枚目、婚約誓約書。


 二枚目、翻訳局服務契約。


 三枚目、聖女基金の寄付台帳。


「第一に、私を『王国契約を妨害した罪人』とする内示。第二に、私の婚約解消届を無効とした王子府の布告。第三に、聖女基金の追加寄付契約。この三つは、同じ古代語条項で結ばれています」


「そんなはずはない!」


「読めない方が、はずはないと断言なさらないでください」


 玉座の間が静まり返った。


 リディアは自分の声が響くのを聞いた。かつてなら、ここで謝った。空気を乱した自分が悪いと思った。けれど契約とは、誰かの機嫌ではなく、書かれた約束を守るためにある。


「条項の訳を読み上げます。『署名者ロゼリア・ヴェルは、王子府に属するすべての未確定契約を、聖女保護契約の下位文書として一時接収する』」


「ロゼリア?」


 王が初めて口を開いた。


 聖女は微笑んだままだった。けれど指先だけが、袖口を握りしめている。


「違います。私はただ、皆様を守ろうと」


「守るために、商会の納品契約も、騎士団の給与契約も、婚約解消届も止めたのですか」


「古代語は、あなたの解釈ですわ」


「では、読み比べましょう」


 リディアは二枚目の羊皮紙を掲げた。


「この文字、薔薇の花弁に見えますが、古代語では『上書き』です。ここに聖女様の署名印が重ねられている。つまり王国中の契約が、聖女様の承認待ちになっている」


 ギルド長の一人が立ち上がった。


「だから薬草の売買契約も通らなかったのか!」


「うちの船荷もだ!」


「騎士団の補給も止まっているぞ!」


 怒号が広がる。


 ユリウスはロゼリアを振り返った。


「君がやったのか」


「殿下が、おっしゃったのです」


 ロゼリアの声が、初めて細く割れた。


「リディア様がいなくても王国は回ると。聖女の奇跡で、古い契約など越えられると。だから私は、聖女保護契約を広げただけです」


 王子の顔から血の気が引く。


 リディアは、そこで喜びを感じなかった。ざまぁ、という言葉なら簡単だ。けれど止まっている契約の向こうには、給金を待つ兵士がいて、薬草を売れない村があり、婚礼を延期された娘がいる。


 ここで勝つだけでは足りない。


 復旧させなければ、翻訳官として負けだ。


「陛下」


 リディアは玉座へ向き直った。


「復旧は可能です。ただし条件があります」


「申せ」


「第一に、王子府は私への罪人内示を公開撤回すること。第二に、婚約解消届を有効と認めること。第三に、今後すべての古代語契約は独立監査を通すこと。第四に、聖女様の署名印を一時凍結し、基金の出入りを公開すること」


 ユリウスが叫んだ。


「父上、そんな屈辱を受け入れるのですか!」


 王は、消えた契約灯を見上げた。


「屈辱ではない。王国を動かす最低限の修理だ」


 そして王は玉座から立った。


「リディア・エルンスト嬢への内示を撤回する。婚約解消を認める。王子府は、本日をもって契約監査を受けよ」


 どよめきが、今度は別の色で広がった。


 リディアの胸の奥で、何かがほどける。


 しかし、床の魔法陣はまだ沈黙していた。


「では、復旧作業に入ります」


 リディアは膝をつき、床の古代文字へ指を置いた。


 そこで、ありえない文字列を見つける。


 薔薇印の下に、さらに古い契約が眠っていた。


『王国契約核は、真の王配候補の署名を求める』


 リディアは息を呑んだ。


 王子ではない。


 聖女でもない。


 契約核が求めている名は、隣国公爵ディートハルトの家名だった。


 次に読むべき条文は、王国の歴史そのものをひっくり返す。

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