ep.4 公開撤回は、玉座の前で
王国契約を再起動する条件は、たった二つだった。
一つ。改変者本人による公開撤回。
二つ。翻訳官リディア・カルヴァートへの独立監査権限の付与。
壁一面に浮かんだその王国語を、フェリクス殿下はしばらく理解できない顔で見上げていた。
「……消せ」
絞り出すような声だった。
「リディア、今すぐ消せ。これは王家への侮辱だ」
「私が書いた文ではありません。建国契約が提示した復旧条件です」
「君が訳したのだろう!」
「訳していません」
私は石卓の上の羊皮紙を示した。
古代語の本文はまだ薄紅色に明滅している。けれど最後の条件だけは、王国語のまま壁に刻まれていた。
「契約書自身が、誰にでも読める言葉を選びました。隠されないために」
殿下の喉が鳴る。
その隣で、聖女ミレーヌ様は祈祷服の袖を握りしめていた。白い指先が震えている。けれど彼女は、まだ何も言わない。
エルヴィン公爵が一歩前へ出た。
「フェリクス殿下。条件は明白です。ここで撤回されれば、王都の契約停止は今夜中に緩和できるでしょう」
「隣国の公爵が、我が国の王子に命じるのか」
「命じてはいません。損失の計算を述べています」
公爵は懐から薄い帳面を取り出した。
「王都東市の薬草取引、停止。港湾倉庫の保管契約、停止。北境騎士団の補給保証、停止。すでに隣国商会にも遅延が波及しています。これは恋愛沙汰ではなく、国際取引の事故です」
恋愛沙汰。
その言葉に、胸の奥がかすかに痛んだ。
きっと王宮の多くは、まだそう思っている。
婚約者に軽んじられた令嬢が、腹いせに仕事を投げた。
聖女に嫉妬した翻訳官が、契約魔法を人質にした。
だからこそ、公開撤回が必要なのだ。
原因を、誰の気分でもなく、手続きの誤りとして明らかにするために。
「公開などできるか」
殿下は歯を食いしばった。
「王家の威信が傷つく」
「すでに契約は止まっています」
「だから、君が黙って直せばいい!」
その一言で、禁室の空気が冷えた。
私は自分の指先が震えていないことを確かめる。
昨日までなら、ここで謝っていたかもしれない。
場を収めるために。
王子の面目を守るために。
私が我慢すれば国が回るのだと、自分に言い聞かせて。
けれど、羊皮紙に浮かぶ黒い拒絶文が、静かに教えてくれていた。
黙って直すことは、次の破綻を予約することだ。
「殿下。私は直します」
殿下の表情に、安堵がよぎる。
「ただし、条件どおりに」
安堵はすぐ怒りに変わった。
「君は、自分が何を言っているか分かっているのか」
「分かっています。契約魔法の復旧には、原因の撤回と監査権限が必要です」
「婚約者の分際で」
「婚約は、昨日解消届を提出しました」
「受理していない!」
「契約窓口が停止していますので」
思わず、エルヴィン公爵が小さく咳をした。笑いを隠したのかもしれない。
殿下の顔がさらに赤くなる。
そのとき、禁室の外から複数の足音が近づいた。
「殿下、こちらにおいででしたか!」
現れたのは宰相と財務卿、神殿長、そして王都商会連盟の代表たちだった。皆、寝不足の顔で、手には止まった契約書や抗議状を抱えている。
彼らの視線が壁の王国語に吸い寄せられた。
一つ。改変者本人による公開撤回。
二つ。翻訳官リディア・カルヴァートへの独立監査権限の付与。
沈黙。
最初に口を開いたのは、商会連盟の老代表だった。
「殿下。これは事実ですかな」
「違う。これはリディアが――」
「建国契約の文字に見えますが」
老代表は眼鏡を上げ、壁を睨む。
「私は古代語は読めません。しかし、契約魔法がこうして王国語で警告を出す例は、商会史に二件だけ記録があります。どちらも、契約主体の不正改変でした」
財務卿の顔色が変わる。
「不正改変……? まさか、優先条項の追加ですか」
私は写し紙を差し出した。
「本文の転写です。王家鍵を用いて、聖女認証印を建国契約へ追加した痕跡があります」
宰相が受け取り、一行目を読んだだけで目を閉じた。
「殿下」
低い声だった。
「王家鍵を持ち出したのは、聖女巡礼の日程調整のためですか」
「国民のためだ!」
殿下は叫んだ。
「聖女の祈りは国民を救う。ならば、多少の契約より優先されるべきだ。私は間違っていない」
「多少の契約?」
商会代表の声が硬くなる。
「その多少で、薬が届かぬ町があります」
財務卿も続けた。
「軍の補給保証が止まれば、北境の砦は三日で備蓄を切ります」
神殿長がミレーヌ様を見る。
「聖女殿。あなたは、この押印を知っていましたか」
全員の視線が、白い祈祷服に集まった。
ミレーヌ様は唇を震わせる。
殿下がかばうように前へ出た。
「彼女を責めるな。私が――」
「知っていました」
小さな声だった。
けれど、確かに聞こえた。
「私は、止めませんでした」
殿下が振り返る。
「ミレーヌ!」
「だって、怖かったのです。巡礼を断れば、聖女ではないと言われる。祈りが足りないと言われる。殿下が全部うまくいくと仰るから……私は、黙っていました」
彼女の目から涙が落ちた。
私はその涙を、勝利だとは思えなかった。
彼女もまた、都合のいい象徴として持ち上げられ、黙ることでしか身を守れなかったのかもしれない。
けれど、黙った結果、契約は止まった。
責任は消えない。
宰相が深く息を吐く。
「公開撤回は、玉座の前で行います。商会、神殿、貴族院の代表を入れる。リディア嬢、あなたには復旧手順の監査を頼みたい」
フェリクス殿下が呆然と宰相を見る。
「私をさらし者にする気か」
「王国を止めた原因を隠すほうが、王家を滅ぼします」
禁室の羊皮紙が、淡く光った。
まるで、その言葉を承認するように。
私は写し紙を胸に抱き直し、静かに頷いた。
「監査は引き受けます。ただし、議事録と復旧手順はすべて公開してください」
「そこまで必要か」
「必要です。契約は、読まれる限り息をします。読ませない復旧は、復旧ではありません」
宰相はしばらく私を見つめ、やがて頷いた。
「分かりました」
その瞬間、石卓の上で止まっていた契約書の一部が、薄紅色を取り戻した。
完全復旧ではない。
けれど、王国が初めて正しい方向へ息を吸った音がした。
玉座の間へ向かう廊下で、エルヴィン公爵が隣に並ぶ。
「リディア嬢」
「はい」
「次は、あなたが王国中に読ませる番です」
私は前を向いた。
玉座の扉の向こうには、王家の威信と、聖女の沈黙と、私が十五年かけて守ってきた言葉が待っている。
もう逃げない。
私は通訳ではなく、約束の監査者として、その扉を開く。




