ep.3 薔薇印の署名と、黙る聖女
王宮の東棟には、百年以上前から開かずのままになっている小さな謁見室がある。
金箔の剥げた扉。くすんだ薔薇の紋章。誰も使わなくなった古代語の銘板。
その前で、私は深く息を吸った。
「リディア様、本当にここでよろしいのですか」
隣で、隣国公爵エルヴィンが声を落とす。
彼は昨日、私が王宮を辞したその足で訪ねてきた人だ。王子や大臣たちが「便利な通訳」と呼んでいた私の仕事を、初めて「王国の契約基盤」と呼んだ人でもある。
「ええ。王国の契約魔法が止まった原因を調べるなら、ここからです」
「財務塔でも、神殿でもなく?」
「はい。財務塔の契約盤は写し。神殿の祝福印も写し。本物の起点は、建国王妃が残した薔薇印の署名です」
扉の銘板に刻まれた古代語を、私は指先でなぞる。
『この国の約束は、読まれる限り息をする』
昔、私がそう訳したとき、第二王子フェリクス殿下は笑った。
詩的すぎる。もっと実務的にしろ。聖女様に説明しづらい。
だから私は、報告書には別の訳を書いた。
『契約魔法の維持には定期確認を要する』
間違ってはいない。けれど、肝心な部分は落ちている。
契約は、ただ保管していれば続くものではない。
読める者が読み、意味を確かめ、互いの約束として更新し続けなければ、魔法は息を止める。
「開きます」
私が古代語で短く告げると、錆びた錠が内側から鳴った。
扉が、ゆっくりと開く。
途端に、冷たい空気と埃の匂いが流れ出した。部屋の中央には白い石卓。その上に、薄紅色の光を失った羊皮紙が一枚だけ置かれている。
建国契約書。
王家、貴族、神殿、商会、そして民を結ぶ、この国で最初の約束。
私は石卓に近づき、羊皮紙の端を見た。
胸の奥が、すっと冷えた。
「……やっぱり」
「何が見えます」
「署名が一つ、上書きされています」
エルヴィンの目が細くなる。
「王家の署名ですか」
「いいえ。聖女認証印です」
昨日まで、この国に聖女はいなかった。
少なくとも、建国契約の時代には。
それなのに羊皮紙の下部には、新しい金色の印が押されていた。祝福の羽を模した、美しい印。宮廷中がいま崇めている聖女ミレーヌの印だ。
ただし、その周囲には古代語の拒絶文が黒く浮き上がっている。
『権限なき追加。本文と不一致。約束の主体を偽るもの』
「……ひどい」
思わず声が漏れた。
契約魔法は、嘘そのものを嫌うわけではない。人は弱く、約束を守れない日もある。それでも、互いに何を約束したかを知り、責任を引き受ける限り、契約は調整される。
けれど、約束していない者を約束の主体に加えることだけは違う。
それは契約ではなく、乗っ取りだ。
「殿下がなさったのですか」
「印の魔力はミレーヌ様のものです。ですが、押印の手順に王家鍵が使われています。フェリクス殿下の権限がなければ、ここまではできません」
エルヴィンは怒鳴らなかった。
ただ、手袋の指先だけがわずかに軋んだ。
「目的は?」
「聖女様の祈りを、王国契約の優先条項にするためでしょう。商会の契約より、領地の水利より、騎士団の補給より、聖女様の予定を優先できるように」
言いながら、昨日の光景がよみがえった。
フェリクス殿下が私に命じた、最後の仕事。
『聖女様の巡礼に合わせて、地方領主との供給契約を調整しておけ。多少の遅れは魔法で丸めればいい』
多少の遅れ。
その「多少」で、冬の備蓄が届かない村が出る。治水工事の支払いが止まる。薬草商会の納期がずれる。
私はそう説明した。
殿下は、聞かなかった。
『君は通訳だろう。余計な判断をするな』
だから私は辞表を出した。
そして今、王国の契約魔法は全部止まった。
「直せますか」
エルヴィンの問いは、静かだった。
私は羊皮紙の黒い拒絶文をもう一度読む。
直せる。
方法はある。
聖女認証印を無効化し、王家鍵の誤用を記録し、本文を正しく読み直せばいい。私一人でも、半日あれば応急復旧はできる。
けれど、それをすれば王宮はまた言うだろう。
やはりリディアがいれば何とかなる。
便利な翻訳官を戻せ。
謝れば十分だ。
私は目を伏せ、それから首を横に振った。
「応急復旧はしません」
「理由を聞いても?」
「ここで私が黙って直せば、また同じことが起きます。契約が止まった原因を、王宮自身に読ませなければいけません」
「読める者がいないのでは」
「読めるように訳します。誰が、どこに、どんな権限外の印を押したのか。王国語で。民にも商会にも分かる言葉で」
エルヴィンはしばらく私を見ていた。
やがて、ほんの少し口元を緩める。
「あなたは王国を見捨てたいのではないのですね」
「見捨てたいなら、ここへは来ません」
「では、何を取り戻したい?」
その問いに、私はすぐ答えられなかった。
婚約者としての名誉。
翻訳官としての地位。
未払いの手当。
どれも、欲しくないと言えば嘘になる。
でも、いちばん奥にあったのは違った。
「仕事の意味です」
私は羊皮紙の端に、持参した写し紙を重ねる。
「私は、言葉を都合よく飾るために古代語を学んだのではありません。約束を、約束のまま届かせるために学びました」
写し紙に黒い拒絶文が転写されていく。
聖女認証印。
王家鍵の誤用。
優先条項の不正追加。
それらが王国語に変わるたび、羊皮紙の薄紅色がわずかに戻った。
契約は、読まれる限り息をする。
ならば、まずは読ませる。
隠されていた約束の傷を、誰の目にも見える形にする。
そのとき、廊下の向こうで足音が荒く響いた。
「リディア・カルヴァート!」
フェリクス殿下の声だった。
振り返ると、殿下が衛兵を連れて立っていた。その隣に、白い祈祷服の聖女ミレーヌがいる。
いつも柔らかく微笑んでいた彼女は、今日は笑っていなかった。
殿下が怒りに頬を染める。
「勝手に王宮の禁室へ入るとは何事だ。今すぐ復旧作業をしろ。命令だ」
私は写し紙を持ち上げた。
「命令の前に、確認がございます」
「何だ」
「建国契約書に、ミレーヌ様の聖女認証印を追加したのは殿下ですか」
空気が止まった。
殿下の目が泳ぐ。
ミレーヌ様は、黙ったまま私を見ている。
その沈黙こそが、答えだった。
「……聖女様の祈りは国益だ。優先されて当然だろう」
「建国契約に、後世の聖女個人を優先する条項はありません」
「だから、追加した!」
殿下が叫んだ瞬間、石卓の羊皮紙が赤く光った。
古代語の文字が、部屋の壁一面に浮かび上がる。
『王家鍵による権限外改変を確認』
『契約停止の原因を確定』
『復旧条件を提示する』
私は息を呑んだ。
羊皮紙は、私の翻訳を待つまでもなく、自ら告発を始めていた。
そして最後の一文が、誰にでも読める王国語で刻まれる。
『王国契約を再起動するには、改変者本人による公開撤回と、翻訳官リディア・カルヴァートの独立監査権限を要する』
フェリクス殿下の顔から血の気が引いた。
私は写し紙を胸に抱き、静かに告げる。
「殿下。もう私は、あなたの便利な通訳ではありません」
その言葉に応えるように、止まっていた契約魔法の中枢が、初めて私の名を正式な監査者として呼んだ。




