止まった契約魔法と、読める女
王城の鐘が七つ鳴る前に、王都の商業区は奇妙な静けさに包まれていた。
パン屋の主人は小麦粉の仕入れ契約を開けたまま固まり、馬車組合の書記は荷札に押された魔法印を何度もこすり、銀行前には青ざめた商人たちが列を作っている。
「契約が、光らない……?」
誰かのつぶやきが、石畳の上を転がった。
古代語契約は、読み手が条文を理解した瞬間に淡く光る。王国の取引は、その光を証明として積み上げられてきた。光らない契約書は、ただの羊皮紙でしかない。
そして、その朝。
王国でただ一人、古代語契約の全文を読める翻訳官は、王宮の席にいなかった。
「リディア様、こちらでございます」
私を迎えに来たのは、隣国ヴァルム公爵家の使者だった。昨夜、辞表と婚約解消届を王宮文書庫へ提出した私は、叔母の屋敷に身を寄せるつもりで荷をまとめていた。けれど夜明け前、公爵家の紋章が入った馬車が門前に止まったのだ。
「公爵閣下は、王都が混乱する前にあなたを安全な場所へ、と」
「私は逃げたわけではありません。必要なら、正式な依頼書を通してください」
そう答えると、使者は少しだけ笑った。
「閣下も同じことを申しておりました。『彼女は善意で働かせてよい人材ではない。契約と報酬を用意しろ』と」
胸の奥に、昨夜まで押し込めていたものが熱くほどけた。
私の仕事を、仕事として扱う人がいる。
それだけで、泣きそうになるほど救われるとは思わなかった。
屋敷に着くと、応接間には三通の書類が置かれていた。避難中の滞在契約、翻訳顧問としての短期契約、そして王国から救援要請が届いた場合の代理交渉委任状。
「内容をご確認ください。急ぎません」
公爵エルヴィン様は、銀灰色の髪を朝日に透かしながら言った。
私は一枚目から目を通す。条文は簡潔で、報酬は明確。『無償の助言を求めない』という一文まである。
「……随分と、私に都合が良い契約ですね」
「あなたがこれまで不利な契約ばかり結ばされていたので、基準を直しただけです」
その言葉に、私は初めて小さく笑った。
しかし、安堵は長く続かなかった。
昼前、王宮からの使者が公爵邸へ駆け込んできた。汗に濡れた額、乱れた襟、そして封蝋の割れた命令書。
「リディア・アシュフォード嬢! 殿下のご命令です。直ちに登城し、停止した契約魔法を復旧なさい!」
命令書の古代語部分は、ひどい誤写だった。
『協力を請う』の一節が、『所有を宣言する』に変わっている。これに署名すれば、私は王家の備品として拘束される。
私は命令書を机に置き、使者を見上げた。
「お戻りください。この書類は読めません」
「そんなはずはない、あなたなら――」
「いいえ。読めないのではなく、読む価値がありません」
応接間が凍りつく。
私は、震えない声で続けた。
「正式な依頼書と、正当な対価と、私を人として扱う文面を。三つそろえてから、もう一度どうぞ」
使者の背後で、公爵が静かに立ち上がった。
「当家の顧問に対する無礼は、ヴァルム公爵家への無礼と同義だ」
初めて、誰かが私の前に立ってくれた。
その瞬間、窓の外で王都の鐘が乱打される。王宮の最上階から、契約塔の光が完全に消えていた。
これは始まりにすぎない。
彼らが失ったものの名前を、まだ誰も知らない。
王宮の使者が去った後、私は公爵邸の書庫を借りた。机に積まれた古代語契約の写しは、どれも王都の混乱を物語っている。家賃契約、雇用契約、婚姻契約。暮らしの土台ほど、文字は静かで、止まれば重い。
「助けたいのですね」
エルヴィン様の問いに、私は否定できなかった。王子に戻りたいわけではない。けれど、パン屋の主人や馬車組合の書記に罪はない。
「助けます。ただし、私を踏み台にする人たちまで甘やかすつもりはありません」
「では条件を作りましょう。王国全体ではなく、民間契約の復旧を優先する。王家関係の契約は、正式謝罪が届くまで後回し」
私は羽根ペンを取った。
初めて、自分のために条件を書く。
その一行目に『リディア・アシュフォードの労働時間は一日六時間を超えない』と記した瞬間、なぜか胸がすくようだった。
遠くでまた鐘が鳴る。
今度は、誰かに呼びつけられる鐘ではない。
私が、私の手で仕事を始める合図だった。




