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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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もう通訳はいたしません

「リディア、今夜の舞踏会には出なくていい。聖女様が古代語の祈祷書でお困りなんだ」


 婚約者である第二王子ユリウス殿下は、私の控室の扉を開けるなりそう言った。

 侍女が結い上げてくれた髪には真珠のピンが差され、淡い青のドレスには一針ずつ銀糸が縫い込まれている。王太后陛下から直々に招待状をいただいた、年に一度の春告げの舞踏会。その入場時刻まで、あと半刻もない。


「聖女様の祈祷書でしたら、昨日のうちに訳文をお渡ししました」

「追加の頁が見つかったそうだ」

「追加の頁、でございますか」


 私は鏡越しに殿下を見た。

 殿下の礼服の胸には、私が贈った銀のブローチではなく、聖女アリア様が好む白い花が差されている。


「舞踏会でのご挨拶は、私が同席する約束でした。隣国の使節団もいらっしゃいます」

「挨拶くらい一人でできる。君は有能だろう? 王国のためと思ってくれ」


 王国のため。

 この一年、私はその言葉で何度予定を取り消しただろう。

 茶会も、母の見舞いも、婚約者としての顔合わせも。聖女様が古代語を読めないから。聖女様が神殿文書を怖がっているから。聖女様が私以外の訳では安心できないから。


 もちろん、聖女様に罪がない場面もあった。異世界から召喚された彼女に、この国の古代語が読めないのは当然だ。

 けれど、私の仕事は王宮翻訳官であって、誰かの気まぐれを埋める小間使いではない。


「殿下。追加の頁は、正式な依頼書を通していただけますか」

「何を堅苦しいことを。君は僕の婚約者だろう」

「婚約者だからこそ、約束を守っていただきたいのです」


 殿下は眉をひそめた。

 私はその顔をよく知っている。私が反論をすると、殿下はいつも少しだけ驚く。まるで、机の上の羽根ペンが勝手に喋りだしたかのように。


「リディア、嫉妬は見苦しいぞ」


 控室の空気が、ぴたりと止まった。

 侍女が息を呑む。私は自分の手袋の縫い目を見つめた。白い絹の指先が、少しだけ震えている。


「嫉妬、ですか」

「アリアは聖女だ。君とは立場が違う。少しは彼女を支えてやろうと思わないのか」

「支えております。王宮翻訳官として、月に七十通以上の文書を訳しました。神殿の祈祷書、旧王朝の盟約、魔道具の封印文、隣国との関税契約。すべて記録が残っております」

「だから、その延長で今夜も頼むと言っている」


 私は静かに立ち上がった。

 ドレスの裾が床を滑る。春告げの舞踏会のために選んだ青は、窓の外の夜に溶けそうな色だった。


「殿下は、古代語契約がどのように成立しているかご存じですか」

「急に何の話だ」

「訳者の署名が、契約魔法の錨になります。誤訳があれば錨は外れ、署名者に罰則が返る。ですから私は、王宮翻訳官として依頼書のない文書には署名できません」

「君なら間違えないだろう」


 それは褒め言葉ではなかった。

 間違えないなら、いくらでも無理をさせていい。そう聞こえた。


「昨夜、神殿から届いた祈祷書の余白に、隣国への鉱山譲渡条項が混ざっていました」

「……何?」

「聖女様はご存じなかったでしょう。神官長も、恐らく全文を読めていない。ただ、私がその場で署名していれば、王家は西部鉱山の採掘権を失っていました」


 殿下の顔色が変わる。

 私は続けた。


「便利な通訳ではなく、責任を負う専門職として扱ってください。これは一年前からお願いしてきたことです」

「それは、後で確認する。今はアリアが待っている」


 後で。

 その言葉で、胸の中に残っていた最後の糸が切れた。


「承知いたしました」


 私は机の引き出しから封筒を二通取り出した。

 一通は王宮翻訳官の辞表。もう一通は、婚約解消の申立書。どちらも三日前から用意していたものだ。署名欄には、すでに私の名前がある。


「本日をもって、王宮翻訳官の任を辞します。ならびに、ユリウス殿下との婚約解消を申し立てます」

「冗談はよせ」

「冗談ではございません」


 私は封筒を銀盆に置いた。

 侍女が震える手でそれを受け取る。


「リディア。君がいなくても翻訳官はいる」

「はい。いらっしゃいます。ただ、古代語契約に署名できる者は、現在の王国には私しかおりません」

「脅すのか」

「事実を申し上げています」


 殿下の視線が鋭くなる。

 以前の私なら、その視線だけで謝っていた。けれど今夜の私は、もう謝る理由を探さない。


「では失礼いたします。舞踏会には、リディア・ファルネーゼ個人として出席します。王宮翻訳官としての呼び出しには応じません」

「待て。アリアの追加頁はどうする」


 扉に手をかけた私に、殿下が言った。

 振り返ると、彼は本気で困惑していた。私が婚約を解消すると告げたことより、聖女様の頁が訳されないことのほうが重大らしい。


 だから私は、はっきりと微笑んだ。


「もう通訳はいたしません」


 その夜、私は初めて殿下の隣ではなく、一人で大広間へ入った。

 人々の視線が集まる。噂好きな令嬢たちが扇を揺らし、貴族たちが小声で囁く。けれど、胸元の空いた場所――殿下から贈られるはずだった花のない場所が、思いのほか軽かった。


 広間の奥で、隣国のクラウス公爵が私に気づいて会釈した。

 彼はかつて、私の訳文にだけ赤字でなく礼状を返してくれた人だ。


「ファルネーゼ嬢。今宵は、あなた自身の名で踊っていただけますか」


 差し出された手に、私は一瞬だけ迷った。

 そして、自分の手を重ねる。


 その瞬間、王城の天井近くで淡い金の文字が弾けた。

 古代語契約が異常を告げる光だ。大広間のあちこちで悲鳴が上がり、文官たちが走り出す。


 王国中の契約書から、私の署名が消え始めていた。


 ――明日の朝、彼らは知ることになる。

 私が黙って支えていたものの重さを。

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