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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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聖女院略号E写しは、同伴した声ではなく貼られた名です

聖女院略号Eの写しが貼られた瞬間、裏門の青札の前にいた者たちは、一度だけ静かになった。


ミナの夜食札を持つ手が固まる。宿舎呼名係のサラは、自分の帳面を胸へ寄せた。未洗いの外套を抱えた下働きの少女は、濡れた袖口を隠すように肘を折った。


第三保管棚係は、その沈黙を待っていたように言った。


「聖女院の略号がある。同伴者欄はこれで足りる。町側証人の余白は不要だ」


不要、という言葉で、夜食と水と門灯と呼名がまとめて消されかけた。


リディアは略号Eの端を指で押さえ、紙ごと引き剥がそうとはしなかった。剥がせば、貼られた痕が失われる。消したい者にとっては、その方が都合がいい。


「名があることと、声が届いたことは違います」


彼女は青い糸を一本、略号Eの周囲に置いた。


「これは、エルミア様が黒髪候補者に同伴した記録ではありません。少なくとも、まだそうは読めません。ここにあるのは、誰かの証人転記欄へ、聖女院の名を蓋のように貼った痕です」


サラが息を吸った。


「では、わたしの呼名帳は……まだ、残していいんですか」


「残します。あなたは同伴者ではなく、未呼名の証人です」


リディアは呼名帳の余白をサラの前へ戻した。


サラは震える字で書いた。


『宿舎で名を呼んでいない。呼んでいないから閉じない。サラは未呼名の証人』


その一行が入ると、略号Eはサラの口を塞ぐ蓋ではなくなった。


ミナも夜食札を机に置く。


「この札、穴が開いていません。聖女院の名が貼ってあっても、食べたことにはなりません」


『夜食未受領。ミナは未配膳の証人。聖女院略号で無効化不可』


ネリオは東井戸の油札を、トマは門灯交代板を、それぞれ青札の下に滑り込ませた。誰も大声を出さない。けれど、ひとつずつ、罰へ落とされかけた証言が机へ戻ってくる。


下働きの少女だけが、まだ外套を抱いたまま動けずにいた。


「これも、出していいんでしょうか。洗わなかったから、怒られるかもしれません」


リディアは彼女の前に乾いた布を広げた。


「洗わなかったことが、今日は仕事です。見せてください」


少女は外套の裾をそっと置く。裏門の石畳に残る黒い泥とは違い、裾の内側に赤茶の土が細く擦れていた。藁くずが二本、縫い目に引っかかっている。


トマが眉を寄せた。


「裏門の泥じゃありません。聖女院の正門でもない。荷車が入る搬入口の赤土に近いです」


第三保管棚係がすぐに言う。


「外套の泥だけで何が分かる」


「同伴したかどうかは分かりません」


リディアは認めた。


「だから、同伴者欄を閉じてはいけないのです。分かるのは、外套が誰かの肩から外れたあと、聖女院側の搬入口に近い土に触れた可能性。そして、その痕を洗わずに残した少女が、怠慢ではなく証人だということです」


少女の肩が、少しだけ下がった。


「わたし、洗っていないことを書いていいんですか」


「書いてください。あなたの仕事の名で」


『外套洗濯係見習い。袖口赤土・藁くずあり。洗濯未了は証拠保全。返却済み処理不可』


少女は自分の名を最後に小さく添えた。名前が入った瞬間、外套は持ち主を責める布でも、洗濯場へ急がせる荷でもなく、帰っていない人の道を残す生活証拠になった。


リディアは次に、略号Eの糊を見る。


乾き方が、おかしい。


同伴者欄の紙は雨を吸って波打っているのに、略号Eの下だけが薄く硬い。糊が後から刷毛で押し込まれ、紙の繊維が逆立っていた。端には、赤い封蝋の欠片が一粒ついている。


トマがそれを爪先で示した。


「婚約契約管理室の白蝋じゃありません。聖女院の礼拝印の金蝋でもない。荷受け封の赤蝋です」


ミナがエルミアの名を見たまま、低く言った。


「では、エルミア様も……自分でここに貼ったとは限らない?」


「限りません」


リディアは、略号Eの上へ青い保留印を置いた。


「エルミア様の名も、まだ本人の声ではありません。誰かの証人欄へ貼られた名なら、黒髪候補者と同じように、読まれる前に使われかけた名です」


聖女の名を疑う冷たさが、机の上で少しだけ形を変えた。


犯人にするための名ではない。サラの呼名、ミナの夜食、ネリオの油札、少女の外套と並べて、まだ本人の声が届いていない名として守る。


リディアは生活影響明細に新しい欄を足した。


『聖女院略号E写し。本人同伴断定不可。貼付位置・糊・封蝋・外套泥を照合するまで、町側証人の証言資格を消さないこと』


第三保管棚係は、唇を歪めた。


「聖女院の名まで保留にする気か」


「いいえ」


リディアは首を振る。


「聖女院の名だからこそ、誰の口を塞ぐために貼られたのかを読みます。名は、人を黙らせる蓋ではありません」


門の外で、雨が弱くなった。


未洗いの外套の裾から落ちた赤土が、乾いた布の上に小さな点を作る。その点は、裏門の石畳ではない場所を指していた。


トマが青札をもう一枚書く。


『次回照合。聖女院搬入口帳、荷受け封蝋、外套赤土。候補者本人・聖女本人・町側証人を同一犯人欄へ転記しない』


リディアは略号Eの写しを剥がさず、青い糸で紙面に留めた。


「次に読むのは、聖女の署名ではありません」


彼女は外套の裾と赤い封蝋片を同じ布の上に置いた。


「荷として通された名と、泥のついた外套の行き先です」

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