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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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同伴者欄は、見た人を責任者にするための空欄ではありません

黒髪候補者の名は、まだ呼ばれていなかった。


宿舎呼名係のサラは、帳面を胸に抱いたまま、裏門の青札の前で立ち尽くしている。雨で湿った紙の端に、彼女の指の跡だけが増えていた。


『黒髪候補者 本人確認待ち』


その下に、婚約契約管理室のきれいな字で一行が足されている。


『同伴者欄 証人転記待ち』


「最後に見た者を同伴者として転記すれば、本人確認待ちは閉じられる」


第三保管棚係は、そう読んだ。まるで、空白を埋めることが親切であるかのように。


サラの唇が白くなる。


「わたしは……呼んでいません。宿舎の戸口で、この方の名を呼んでいません。だから、わたしのせいにされるのですか」


ミナが夜食札を握り、ネリオが東井戸の油札を胸元へ隠し、ユアンが捜索灯の芯を短くした。三人とも、昨日までなら黙ったはずだった。見たと言えば、連れて行ったことにされる。渡していないと言えば、渡さなかった罪にされる。声を聞いていないと言えば、聞かなかった責任にされる。


リディアは、同伴者欄の横に青い線を引いた。


「同伴者欄は、見た人を責任者にするための空欄ではありません」


第三保管棚係が眉を上げる。


「では、何の欄だ。候補者が消えたなら、最後に見た者を固定しなければ」


「固定する前に、生活到達を読みます」


リディアは、紙を四つに分けた。


一つ。夜食を受け取ったか。


二つ。水を飲めたか。


三つ。門灯の下を通ったか。


四つ。宿舎で名を呼ばれ、返事があったか。


「この四つが未到達のままなら、同伴者欄に誰かの名を入れても、その人は黒髪候補者を帰した証拠になりません。むしろ、帰っていない人を探す証人まで犯人欄へ落とします」


ミナが一歩出た。


「夜食の包みが、一つ残っていました。黒髪の方の札穴だけ、まだ開いていません」


彼女は自分の字で、余白に書く。


『夜食未受領。ミナは配膳未到達を見た証人。犯人欄へ転記不可』


ネリオも、油札を机に置いた。


「東井戸の水札も未使用です。門灯を通ったなら、一番水の札に焦げ跡がつくはずです。でも、ありません」


『水場未到達。門灯係ネリオは脅迫を受けた生活影響証人。代筆責任者へ転記不可』


ユアンは捜索灯を少し上げた。雨粒の中で、裏門から宿舎へ伸びる細い石畳だけが白く浮かぶ。


「門灯二つ目が、昨夜だけ消えています。黒髪候補者がここを通ったなら、灯の影が宿舎帳の窓に入る。サラさんは、その影を見ていない」


サラは震えながらも、呼名帳を開いた。


「この名は、まだ呼んでいません。呼んでいないから、閉じないでください。わたしが呼ばなかった罪ではなく、まだ呼べていない人として残してください」


リディアは、その言葉を消さなかった。美しい定型文にも直さなかった。


『宿舎呼名未到達。サラは未呼名の証人。黒髪候補者は本人確認待ちのまま捜索継続』


青い保留印が三つ、同伴者欄の周囲に置かれる。


トマは門脇の釘へ、小さな板を一枚吊った。


『同伴者欄保留中。証人の夜食・水・門灯・呼名の証言を罰へ転記しないこと』


板が揺れるたび、門の外で待っていた下働きの少女が、そっと息を吐いた。彼女は黒髪候補者の外套を畳んだまま抱えている。返却済みにすれば洗濯場へ回せる外套だった。けれど、袖口にはまだ雨と石畳の泥が残り、誰の肩からいつ外れたのかを話していた。


「洗っても、いいんですか」


少女が聞いた。


リディアは首を振らず、外套の下に乾いた布を敷いた。


「まだ洗いません。汚れも、帰れなかった道の一部です。あなたは洗わなかった怠慢ではなく、洗わずに残した証人です」


すると、空白は責任を押し込む穴ではなくなった。夜食の包み、水札、門灯、呼名帳、そして未洗いの外套が同じ机の上でつながり、黒髪候補者を「まだ帰っていない人」として数え直した。


第三保管棚係は、低く言った。


「証人ばかり増やせば、管理室は閉じられない」


「閉じるための帳面ではありません」


リディアは返した。


「帰れなかった人を、誰の記憶からも落とさないための帳面です」


そのとき、トマが同伴者欄の端を指で押さえた。


「リディアさん。これ、署名者空白欄の裏面にあった略号Eと、貼り方が違います」


聖女院略号Eの写し。


だが、今回は本人署名欄ではない。証人転記待ちの端に、後から糊で貼られている。紙の繊維が少しだけ逆立ち、複写紙の灰色がずれていた。


ミナが息を呑む。


「エルミア様が、同伴者だったんですか」


リディアは首を振った。


「まだ、そうは読みません。これはエルミア様が同伴した記録ではなく、エルミア様の名を、誰かの証人転記に貼ろうとした記録です」


青札の下で、黒髪候補者の名はまだ空白だった。


けれど、今度の空白は、誰かを罰へ落とす穴ではない。


夜食、水、門灯、呼名。その四つが戻るまで、閉じてはいけない場所になった。


リディアは略号Eの写しの上に、最後の青い紐を結んだ。


「次は、この名が誰の声を借りようとしたのかを照合します」

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