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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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候補者控室帰路札束の封緘紐

候補者控室の帰路札束は、紙を束ねたものではなかった。


 門を通るための札。

 夜道を歩くための小灯札。

 冷えた肩にかける外套貸出票。

 井戸水を一本受け取る水札。

 そして、宿舎の戸口で本人が返事をした時にだけ閉じられる到着確認欄。


 帰る、という一語は、それだけの小さな手順でできている。


 その束を結んでいた予備封緘紐が、旧職能印写し保管箱の側面に巻かれていた。


「箱を動かすための紐じゃありません」


 最初に言ったのは、リディアではなかった。

 ミナだった。


 彼女は三枚目の名前のない食事札のそばに立ち、両手を握りしめている。震えてはいた。けれど、前のように誰かの後ろへ隠れてはいなかった。


「控室では、帰路札束の赤い紐をほどく前に、外套と水札を切り離します。外套を借りない子は、夜門の列に並べません。水札を受け取っていない子は、宿舎まで歩かせません」


 奥帳簿の赤文字が、するりと反論を出した。


 候補者控室帰路札束。

 予備封緘紐、第三保管棚移動時に使用。

 封緘解除者、未記載。


「未記載で閉じないでください」


 ミナは、白札を一枚取った。

 そこに自分の字で書く。


 ミナ・レイ。

 候補者控室同席者証言。

 赤い予備封緘紐は、帰る人の札束を閉じるもの。

 箱移動用封緘としての使用、本人たちの退室手順未確認。


 リディアは青い保留印を押さなかった。

 先に、ミナの文字が乾くのを待った。


「受け付けます。帰路札を、箱の材料ではなく、帰るための手順へ戻します」


 トマが旧職能印写し保管箱の側面をのぞき込む。


「この紐、棚移動用の正規封緘じゃありません。鍵管理棚の紐は、二重に撚ってあって、ほどくと黒い印粉が落ちます。でもこれは、片結びです。控室で急いでほどけるようにしてある」


「帰る時にほどくためですね」


 ユアンが捜索灯を近づけた。

 火は、紐の結び目の内側だけを青く照らす。


 薄い泥。

 油。

 そして、門灯札を切り離す時につく小さな金粉。


 第三保管棚の床ではない。

 候補者控室裏門の石段でつく汚れだった。


「ロウさんは、箱を見張っていただけじゃないかもしれません」


 ユアンの声が低くなる。


「この紐、裏門を通っています。ロウさんの捜索灯を、第三保管棚だけじゃなく、候補者控室裏門まで延ばしてください」


 リディアはうなずいた。


 ロウ・カイル捜索灯。

 夜明けまでの油札一枚、継続。

 照射範囲、第三保管棚搬入口および候補者控室裏門へ拡張。

 捜索終了扱い、不可。


 青い保留印が落ちる。


 ユアンの手の灯が、少しだけ前へ向いた。

 誰かを見つけたわけではない。

 それでも、探す場所が帳簿の外へ一つ伸びた。


 赤文字がまた浮かぶ。


 帰路札四枚。

 外套札二枚、切離し済み。

 水札一枚、切離し済み。

 門灯札一枚、未切離し。


「四枚?」


 トマが眉を寄せた。


「候補者は三人だったはずです。ミナさんと、黒髪の子と、聖女院から来た確認係。それなら帰路札は三枚で足ります」


 ミナが、息を止めた。


「……違います」


 彼女は、まだ乾ききっていない白札の端を押さえた。


「黒髪の子は、外套を借りていません。水も受け取っていません。でも、門灯札だけ、まだ束に残っていました。誰かがその子を、門まで行ったことにするつもりだったんだと思います」


 リディアは赤文字を見た。


 門灯札一枚、未切離し。

 受領者名、黒髪候補者。

 宿舎到着、未確認。

 帰路同伴者欄、空白。


 静かだった奥帳簿の部屋に、初めて夜風のようなものが入った。


 食べていない。

 水を受け取っていない。

 外套を借りていない。

 それなのに、門だけは通ったことにされかけている。


「この門灯札は、誰かの犯人名ではありません」


 リディアは、青い保留印を門灯札の横へ置いた。


「まだ帰っていない人の、帰る権利です」


 ぱしん。


 青い線が、未切離しの門灯札を閉じずに守った。


 その瞬間、門灯札の裏面に、細い追記が現れる。


 裏門灯管理係。

 帰着済み処理予定時刻、深夜二刻四十分。

 処理担当、代筆可。


 ミナが顔を上げる。

 ユアンの捜索灯が、今度は扉の方を照らした。


 リディアは白札を一枚、まだ何も書かずに残す。


「次は、門を通っていない人を、誰が二刻四十分に帰着済みにしようとしたのかを読みます」


 帰路札束は、箱を縛る紐ではない。

 帰る人が、自分の足で戸口まで届くまで、ほどかれてはいけない生活の束だった。

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