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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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返納受領未了の旧職能印写し

「旧翻訳局退職処理済み印の封緘角度と一致」


 その一行が出た瞬間、奥帳簿の部屋の温度が一つ下がった。


 ミナの食事札を握る指が止まる。

 ユアンの捜索灯の火が、細く揺れる。

 トマだけが鍵束貸出票を抱えたまま、リディアの横顔を見た。


 赤い文字は、まるで答えを見つけたように続いた。


 封緘裏写し担当。

 旧職能印写し、角度一致。

 退職処理済み印により、旧職能者責任へ帰属。


「リディアさんが……?」


 ミナの声は、疑う声ではなかった。

 怖がる声だった。


 誰かを責めれば、また処理済みになる。

 聖女院略号Eを犯人札にしようとした時と同じように、今度はリディアの退職印が、食事札と帰路札と捜索灯を閉じるための札にされようとしている。


 リディアは息を吸った。


「私の名前を読む前に、この印がどこで保管され、誰が受け取ったことにされたのかを読みます」


 自分を弁護する言葉ではなかった。

 帳簿の手順を、生活の場所へ戻す声だった。


 青い保留印を、赤文字の「旧職能者責任」の上ではなく、その一つ前の「旧職能印写し」の横へ置く。


 ぱしん。


 奥帳簿の底が、薄く鳴った。

 黒い表紙の下から、灰色の小箱がせり上がってくる。


 旧職能印写し保管箱。

 王太子府婚約契約管理室、第三保管棚。

 状態、返納受領未了。

 退職処理済み印、仮封緘中。


「返納受領未了……?」


 ユアンが小さく読む。


「処理済みと、未了が並んでいます」


 リディアは白札を四枚に分けた。


 旧職能印原本。

 旧職能印写し。

 退職処理済み印。

 返納受領欄。


「角度が一致しているのは、手の一致ではありません。保管された写しを、同じ向きで貼ったという記録です。印影は朝食を受け取りません。印影は門を通りません。印影は、ロウさんの捜索灯を消してよい理由にもなりません」


 赤い文字が反論するように跳ねた。


 退職処理済み印写しは、旧職能者本人の返納意思を示す。

 よって封緘裏写し担当は、旧職能者責任に帰属する。


「返納意思では足りません」


 リディアは、返納受領欄の空白を指で押さえた。


「受領した人、受領した時刻、受領後に誰が写しを使える棚へ移したか。その三つがなければ、私の退職は、誰かの裏面貼付の許可にはなりません」


 トマが小箱の錠前を覗き込んだ。

 彼はもう、ただの相槌役ではなかった。鍵管理係として、箱の声を聞いている。


「この箱、閉じた記録はあります。でも、受け取った人の鍵番号がありません」

「鍵番号がない?」

「返納箱の鍵番号と、第三保管棚の鍵番号が違います。返納された箱を、そのまま保管したんじゃありません。一度、写し用の棚へ移しています」


 奥帳簿の底から、細い時刻欄が浮かぶ。


 返納箱閉鎖、深夜二刻三十七分。

 第三保管棚移動、深夜二刻三十八分。

 封緘裏貼付、深夜二刻三十九分。


「ロウさんの帰着済みは、二刻三十六分でした」


 ユアンが捜索灯を両手で持ち上げる。

 今までロウ・カイルの名の横で細く燃えていた灯を、彼は小箱の返納受領欄の空白へ向けた。


 火が、青白く伸びた。


 受領者、未記載。

 受領時本人確認、未了。

 生活影響明細、未添付。


「帰ったことにされたあとで、箱が動いています」


 ユアンの声は震えていた。

 けれど、消えそうな声ではなかった。


 ミナが一歩前に出る。


「私、書きます」


 彼女は自分の食事札ではなく、三枚目の名前のない食事札の横に手を置いた。


「リディアさんが押したかどうかは、私には分かりません。でも、私は略号Eを見せられていません。隣の黒髪の子も、朝食を食べていません。ロウさんが帰ったところも、見ていません。だから、この印だけで閉じないでください」


 ミナ・レイ。

 候補者控室同席者証言。

 三枚目食事札、本人未食の疑いあり。

 本人確認まで、処分不可。


 青い線が、食事札の下に一本増えた。


 リディアは、ほんの少しだけ目を伏せた。

 守られているのは自分の名ではない。

 ミナが、自分の怖さより先に、名前のない誰かの朝食を守ったのだ。


「受け付けます」


 リディアは白札を読み上げた。


 旧職能印写し。

 本人署名にあらず。

 返納受領未了。

 生活影響明細未添付。

 食事札三枚への効力、未発令。

 帰路札四枚への効力、未発令。

 ロウ・カイル捜索灯停止への効力、未発令。


 ぱしん。


 青い保留印が落ちる。


 ロウ・カイル捜索灯。

 夜明けまでの油札一枚、支給保全。


 ユアンの手の中で、捜索灯の火が少し太くなった。

 ロウが見つかったわけではない。

 けれど、探すための夜が、勝手に処理済みにされずに残った。


「ありがとうございます」


 ユアンは誰にともなく言った。

 リディアは首を振る。


「お礼は、ロウさんが自分の足で帰るまで保留です」


 その時、小箱の側面に巻かれていた細い紐が、青い灯で浮き上がった。


 第三保管棚移動時使用封緘紐。

 候補者控室帰路札束、予備封緘紐と一致。


 トマが息を呑む。


「帰路札を束ねていた紐で、旧職能印写しの箱を動かした……?」


 赤い文字が、初めて答えを出さずににじんだ。


 帰路札束。

 封緘解除者、未記載。

 再封緘先、第三保管棚。


 リディアは、青い保留印をもう一度手に取った。


「次は、帰るための札束が、なぜ誰かの印箱を動かす紐にされたのかを読みます」


 捜索灯は消えなかった。

 名前のない食事札も、リディアの旧職能印写しも、まだ閉じられていない。


 閉じていないものがある限り、誰かの帰る道は、まだ帳簿の中で生きている。

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