生活影響明細別冊・旧翻訳局出向番号七一
処理済み。
その四文字は、奥帳簿の上であまりにも軽かった。
けれど、リディアの前に並んだ白札は、一枚も軽くならない。
サラ・ノートンの食事札。
ロウ・カイルの捜索灯。
ミナの帰路確認欄。
どれも、処理済みという印の下で、本人の手に届く前に閉じられようとしていた。
「別冊を開きます」
リディアは青い保留印を、黒い封緘のすぐ横に置いた。
封緘が、湿った紙のように沈む。
古い翻訳局の印影が浮かび、細い文字が列になった。
生活影響明細、別冊。
受領者、旧翻訳局出向番号七一。
返却状況、処理済み。
食事札三枚、回収済み。
帰路札四枚、処理済み。
署名責任、旧翻訳局出向番号七一に帰属。
「食事札まで……」
ミナが喉を詰まらせた。
「サラさんが返してほしいと言った札も、この別冊に入っていたんですか」
「入れられていました」
リディアは一行ずつ、白札へ写す。
食事札三枚。
誰が食べるはずだったか、未記載。
帰路札四枚。
誰がどこへ戻るはずだったか、未記載。
署名責任。
誰が何を読んだ責任か、未記載。
「処理済み、ではありません」
リディアの声に、奥帳簿の赤い文字が震えた。
「これは、朝食が誰の口へ届いたかを書いていません。帰路札が誰の手で門を通ったかを書いていません。署名責任だけを番号へ渡して、生活の到着先を消しています」
トマが鍵束貸出票をめくった。
「旧翻訳局出向番号七一……個人名じゃないですね。出向者名簿にも、番号だけで名前がありません」
「番号は歩きません」
リディアは、前話と同じ言葉を、今度は別冊へ向けた。
「番号は朝食を受け取りません。番号は宿へ帰りません。番号は、読んでいない条文へ責任を負えません」
青い保留印が落ちた。
ぱしん。
食事札三枚の行が、薄く白く開く。
候補者サラ・ノートン。
食事札一枚、本人返還未了。
候補者ミナ・レイ。
食事札一枚、本人名義保全済み。
候補者名不明、一名。
食事札一枚、本人確認未了。
「三枚目が、まだ名前なし……」
ミナが唇を噛む。
「隣の隣に、黒髪の子がいました。名前は、聞けませんでした。係に『正式候補外は並ばないで』と言われて、すぐ……」
「では、正式候補外ではなく、本人確認未了者として保全します」
リディアは三枚目の札へ、空白を残したまま青い線を引いた。
名前不明の候補者。
食事札一枚、処分不可。
本人確認まで、控室備品へ戻さない。
赤い文字が、短く跳ねた。
候補者外の食事札は儀礼準備物として回収可。
「儀礼準備物ではありません」
リディアは、パン屋の小さな焼印が残る札を指で押さえた。
「これは、誰かが朝に食べるはずだった一食です。儀礼の準備より先に、本人の胃へ届く条件を確認します」
ミナの目が濡れた。
けれど泣き崩れはしなかった。
彼女は自分の食事札を、白札の隣へ置いた。
「私、覚えています。三枚目の子は、食べる前に呼ばれました。戻ったら冷めていてもいいから、と言っていました」
「証言として残します」
リディアは書く。
候補者ミナ・レイ証言。
三枚目の食事札、本人未食。
冷めても本人返還希望あり。
ぱしん。
青い保留印が二度目に落ちる。
奥帳簿の奥で、小さな音がした。
どこか遠い控室で、閉じられていた配膳棚の札が一枚、本人名義の棚へ戻る音だった。
「……戻った」
ミナが息を吐く。
「全部ではありません」
リディアは首を振る。
「でも、処理済みではなくなりました。未返還です。未返還なら、探せます」
次に、帰路札四枚の行を開く。
候補者サラ・ノートン。
宿舎到達、未確認。
候補者ミナ・レイ。
帰路、町側証人同伴により保全。
運搬人ロウ・カイル。
本人帰着、未確認。
旧翻訳局出向番号七一。
帰路、処理済み。
最後の一行だけが、黒かった。
「七一番自身も、帰ったことにされています」
トマの声が低くなる。
「署名責任を負わされて、帰路も処理済み。名前がないのに」
「だから、七一番を責任者欄へ閉じません」
リディアは新しい白札を置いた。
旧翻訳局出向番号七一。
氏名、未照合。
本人読了、未確認。
帰路到達、未確認。
署名責任、本人確認まで保留。
赤い文字が、今度は強く光った。
出向番号七一は、生活影響明細別冊の受領者である。
受領者は返却状況処理済みにより、異議権を失う。
「異議権を失いません」
リディアは即座に返した。
「受け取ったことにされた人が、食事も帰路も本人名も確認されていないなら、その人は異議を失ったのではなく、異議を言う場所を奪われています」
ユアンの捜索灯が、すっと明るくなった。
「じゃあ、ロウさんも」
「ええ。帰ったことにされた人は、帰っていないと言える場所を持たなければなりません」
リディアは、帰路札四枚の横に小さな欄を増やした。
本人到達異議欄。
食事未返還異議欄。
署名責任未読異議欄。
ミナが、震える指で自分の名を書いた。
ミナ・レイ。
食事札本人受領済み。
サラ・ノートンの帰宿、見ていない。
三枚目の候補者、未食のまま呼出し。
トマが続ける。
鍵管理係トマ。
旧翻訳局出向番号七一の本人名、未確認。
番号のみの責任移管、鍵束貸出規則上も不可。
ユアンも書いた。
下級写字係ユアン・リット。
ロウ・カイル本人帰着、未確認。
捜索灯、継続要求。
三つの字が並ぶと、黒い封緘が少しだけ白く割れた。
旧翻訳局出向番号七一。
氏名欄、封緘解除条件不足。
解除条件、生活影響明細別冊の原署名者確認。
「原署名者……」
トマが顔を上げた。
「七一番が署名したんじゃない。七一番に受領させた、原署名者がいる」
「はい」
リディアは、まだ割れない封緘を見つめた。
「今話で戻せたのは、三つです。三枚目の食事札を処分不可にしたこと。ロウさんの捜索灯を継続に戻したこと。七一番を責任者ではなく、本人確認未了者として保留したこと」
小さな報酬は、まだ小さい。
けれど、処理済みの印はもう完全な蓋ではない。
奥帳簿の底から、別の紙片が浮かび上がる。
生活影響明細別冊。
原署名者確認欄。
王太子府婚約契約管理室、旧翻訳局出向受領担当。
署名者、空白。
ただし、封緘裏面に聖女院略号Eの写しあり。
ミナが息を止めた。
リディアは、エルミアの名をまだ書かない。
代わりに、空白の署名欄へ青い保留印を置いた。
「次は、署名者が空白のまま、なぜ聖女院略号だけが裏面にあるのかを読みます」
封緘の裏で、誰かの筆跡が一画だけ震えた。




