略号Eの本人確認欄
儀礼準備廊の奥帳簿は、開いたまま閉じなかった。
ミナの食事札は戻った。
ロウ・カイルの捜索灯も、まだ細く燃えている。
それでも赤い文字は、たった一つの略号で三人分の帰路を閉じようとしていた。
略号E、三件。
帰路確認、完了。
異議記載なし。
「完了ではありません」
リディアは青い保留印を置いた。
「前回は、候補者が帰れたかを読みました。今回は、帰れたと書いた者が、何を確認したのかを読みます」
ミナが息を詰める。
「Eは……聖女エルミア様の、Eなのでしょうか」
その声には、責める色より先に恐れがあった。
もし聖女の名が犯人欄へ落ちれば、候補者だった自分の言葉も、聖女に逆らった証言として潰される。
リディアは首を横に振った。
「まだ、聖女様の名には戻しません」
「戻さない?」
「ええ。略号は名前ではありません。まして犯人札でもありません」
赤い文字が、帳簿の上で細く伸びる。
確認者、E。
確認対象、候補者三名、運搬人一名。
確認内容、退室、控え階段使用、食事札回収、賃金精算不要。
本人帰着欄、空白。
生活影響明細、未添付。
ユアンの捜索灯が、一瞬だけ弱くなった。
「……そのEの確認で、ロウさんも帰ったことにされたんですか」
「そのように処理されています」
リディアは白札を四枚並べた。
一枚目。
本人署名欄。
二枚目。
代理署名欄。
三枚目。
責任範囲欄。
四枚目。
生活影響明細欄。
「Eが誰かを読む前に、Eで何が閉じたのかを読みます」
トマが鍵束貸出票を抱えたまま、奥帳簿を覗き込んだ。
「確認者E、っていう一行だけで、候補者三名と運搬人一名ですか。鍵束貸出票の部署名と同じだ。個人が歩いた証拠になっていません」
「そうです」
リディアは一枚目の白札に書いた。
本人署名欄、未確認。
筆跡欄、なし。
署名時刻の本人所在記録、未照合。
赤い文字が反論のように震える。
聖女院略号規則に基づき、Eは有効確認者とする。
「有効確認者、では足りません」
リディアは二枚目へ移る。
代理署名欄、空白。
代理権限根拠、未添付。
本人読了確認、なし。
「聖女院の規則で略号が使えるとしても、誰かの食事札を回収し、賃金を精算不要にし、帰路を閉じるなら、本人が何を読んで署名したのか、代理なら誰がどの範囲を代わったのかが必要です」
「でも、聖女様のお名前が出たら……」
ミナの手が食事札を握りしめた。
「私は、聖女様を責めた人として処理されますか」
「処理させません」
リディアは三枚目を置いた。
責任範囲欄。
退室確認と帰着確認の混同、不可。
食事札回収を生活影響なしとみなす処理、不可。
半日賃金を栄誉語で消す処理、不可。
「聖女様の名を守ることと、候補者の帰路を守ることは、同じ手順です」
ミナが顔を上げる。
「同じ……?」
「はい。誰かの名を、本人が読めない場所で別の目的に使わない。候補者にも、運搬人にも、聖女様にも、同じ確認が必要です」
その時、奥帳簿の端がめくれた。
候補者サラ・ノートン。
読了補助後退室。
食事札、控室備品へ回収。
証言資格、正式候補外により参考不可。
帰路確認者、E。
「サラ……」
ミナが小さく名を呼んだ。
「隣の椅子に座っていた方です。私より先に階段へ行きました。『今日は宿代が足りないから、食事札だけでも返してほしい』って、係の方に……」
言葉が切れた。
リディアは四枚目の白札をサラの行に重ねた。
生活影響明細。
食事札一枚、本人名義へ返還対象。
帰宿費相当、未払い保全。
証言資格、候補者処理による喪失不可。
本人帰着、未確認。
ぱしん。
青い保留印が落ちる。
サラ・ノートンの行が、赤から薄い白へ戻った。
正式候補外。
参考不可。
その二行に、青い線が引かれる。
本人帰着未確認者。
証言資格、保全。
「名前が、出ました」
ミナが震える声で言った。
「さっきまでは、正式候補外、だけだったのに」
「正式候補外は、その人の名前ではありません」
リディアは静かに答える。
「サラさんは、宿代を心配して、食事札を返してほしいと言った人です。その一言は、帰路確認欄より先に残さなければいけません」
ユアンの捜索灯がまた揺れた。
ロウ・カイル。
台帳箱搬入、完了。
運搬人退室済み。
夜勤賃金、帰路確認済みにより精算不要。
捜索灯、停止対象。
帰路確認者、E。
「止めないでください」
ユアンが思わず前へ出る。
「ロウさんは、箱を運んだだけです。候補者じゃない。聖女様の儀礼にも関係ない。なのに、同じEで帰ったことにされている」
「だから、分けます」
リディアはロウの行にも白札を置いた。
台帳箱搬入、物品到着。
本人帰着、未確認。
捜索灯、継続。
夜勤賃金、帰路確認者略号による精算不可。
証言資格、本人不在により喪失不可。
青い保留印が、捜索灯の火へ映った。
火は細いままだ。
けれど消えなかった。
「略号は歩きません」
リディアは奥帳簿を見据えた。
「部署名も、候補者を宿へ送りません。出向番号も、運搬人の夜勤賃金を受け取りません。人が歩き、人が読み、人が帰る。その終点を書けない署名を、帰路確認には使わせません」
赤い文字が、今度は別の行を押し出してきた。
E略号、聖女院確認規則第二式。
本人名、封緘。
本人確認、儀礼準備廊奥帳簿管理責任者により省略可。
「省略可……?」
トマが眉を寄せる。
「本人確認を省略できる人が、別にいるってことですか」
「ええ」
リディアは、エルミアの名をまだ書かなかった。
代わりに、白札へこう記す。
略号E。
聖女エルミア本人との照合、未了。
代理署名使用の可能性、保全。
犯人欄転記、不可。
証言資格、保全。
ミナが目を見開いた。
「聖女様の証言資格も、守るんですか」
「守ります」
リディアは即答した。
「エルミア様が本当に読んで署名したなら、その責任範囲を読まなければなりません。読んでいないのに名を使われたなら、その人もまた、本人確認欄を奪われています。どちらであっても、犯人欄へ投げ込む前に、本人が何を読めたかを確認します」
奥帳簿の赤が、一瞬だけ止まった。
その沈黙の間に、サラの名が白く残った。
ロウの捜索灯が残った。
ミナの食事札が、控室備品ではなく本人名義の札として光った。
小さな報酬は、確かに三つあった。
食べるはずだった一食。
帰ったことにされない灯り。
犯人欄に落とされない名前。
けれど、奥帳簿はまだ閉じない。
次のページに、黒い封緘が浮かび上がった。
候補者帰路確認様式。
作成者、儀礼準備廊奥帳簿管理責任者。
氏名欄、封緘。
生活影響明細、別冊。
旧翻訳局出向番号、一件。
リディアの指先が、青い保留印の縁をなぞった。
「略号Eだけではありません」
赤い封緘の下で、古い翻訳局の印影が淡く光る。
「略号だけで帰路を閉じられる様式を、誰かが作っています」
奥帳簿のさらに奥で、紙の束が落ちる音がした。
生活影響明細、別冊。
受領者、旧翻訳局出向番号七一。
返却状況、処理済み。
リディアは息を吸った。
「次は、処理済みという言葉が、誰の朝食と帰路を閉じたのかを読みます」




