候補者控室の帰路確認欄
候補者控室は、扉の外から見ると小さな待合室に見えた。
白い椅子が六脚。
薄い茶の置かれた丸卓が一つ。
壁には、候補者心得、と金色で書かれた額。
けれどリディアは、床に置かれた靴跡の向きを見た瞬間、喉の奥が冷えた。
入室の足跡は、六人分ある。
退室の足跡は、二人分しかない。
「……ここで待たされました」
ミナが、自分の白札を胸に当てた。
「説明を受けるまで座っていなさい、と。読み終えたら、係の方が呼ぶから、と」
「呼ばれましたか」
リディアが尋ねると、ミナは首を横に振った。
「いいえ。呼ばれたのではなく、扉が勝手に開きました。廊下の先が、王太子府の控え階段につながっていて……私は、そこを通れば帰れるのだと思いました」
王国契約核の赤い文字が、壁の額の下に浮いた。
候補者控室。
説明待機者、六名。
読了補助後退室、六名。
異議記載なし。
帰路確認、完了。
「完了していません」
リディアはすぐに言った。
怒鳴らなかった。
怒鳴ると、部屋が事件になる。
今、必要なのは事件名ではなく、帰れなかった手順を一つずつ床へ戻すことだった。
「帰路確認欄を、四つに分けます」
青い保留印の横へ、白札を並べる。
本人が部屋を出た時刻。
本人が自分の名で廊下を選べたか。
食事札と賃金札が持ち出せたか。
宿、家、職場、次の生活場所へ着いた確認。
トマが、鍵管理係の札を見下ろした。
「扉を出た、だけでは帰路にならないんですね」
「ええ」
リディアは、六脚の椅子を指した。
「椅子から立っただけなら退室。廊下へ出ただけなら移動。階段を下りただけなら誘導。本人が、断っても食事札と半日賃金を失わず、宿へ戻れる道を持って初めて帰路です」
赤い文字が反論するように揺れた。
候補者は説明済み。
説明済み候補者は、控え階段使用をもって退室確認とする。
「控え階段は、どこへ続きますか」
ユアンが先に聞いた。
彼の手元の捜索灯は、まだ細く燃えている。
ロウ・カイルの未帰着を消さないための、小さな灯りだ。
壁の額から、別の赤文字がにじみ出た。
王太子府儀礼準備廊。
候補者移送、補助者立会により完了。
食事札、候補者控室備品として回収。
半日賃金、説明済み扱いにより精算不要。
「それは帰路ではありません」
ミナの声が、前より少しだけ強くなった。
「食事札を置いていけと言われました。説明が終われば正式候補になるから、あとで別の札が出ると。賃金のことを聞いたら、候補者は栄誉だから賃金ではない、と」
リディアは、ミナを見た。
「その時、断れましたか」
「……断るための出口が、ありませんでした」
その一言で、候補者控室の椅子が待合室ではなくなった。
ここは、読む前の人を座らせる部屋ではない。
断った後に帰る道を消す部屋だ。
リディアは白札の一枚目に書く。
退室ではなく、帰着未確認。
二枚目。
食事札回収、生活影響明細未添付。
三枚目。
半日賃金、栄誉語による不払い不可。
四枚目。
本人が断った後の宿への道、未記載。
「候補者という語を、儀礼側と生活側に分けます」
リディアは、額の金文字を見上げた。
「儀礼側では、候補者は鍵や席や資格に見えるのでしょう。でも生活側では、ミナさんは朝食を食べ、写字机で働き、半日賃金で宿代を払い、読めない文に分からないと言える人です」
ぱしん。
青い保留印が、丸卓の上に落ちた。
候補者控室。
帰路確認欄、再分類。
退室確認を帰着確認とみなす処理、停止。
食事札回収、保留。
半日賃金精算不要処理、保留。
ミナの白札が、薄く光った。
候補者ミナ・レイス。
本人帰着未確認。
宿への帰路、未記載。
食事札一枚、返却対象。
半日賃金、未払い保全。
「……戻ってきました」
ミナが、丸卓の端に置かれていた灰色の札を拾い上げる。
そこには、小さく、ミナ・レイス食事札、と書かれていた。
候補者控室備品、という赤い上書きの下に、かすかに残っていた名前だった。
「私の、札です」
「はい」
リディアはうなずいた。
「今日は、それを持って帰れます。正式な候補者であるかどうかとは別に、あなたが働いた半日と、食べるはずだった一食は、消えません」
ユアンの捜索灯が、また一つ強くなった。
「ロウさんも、この控え階段を通っています」
床の端に、黒い靴底の擦れが残っていた。
運搬人の靴だ。
重い台帳箱を持つ時、右足の外側だけが深く沈む。
トマが膝をつき、鍵束貸出票と床の擦れを照らし合わせる。
「台帳箱、候補者控室経由。運搬人、控え階段使用。帰着確認、王太子府側で一括完了……」
「一括では帰れません」
リディアは五枚目の白札を置いた。
運搬人ロウ・カイル。
候補者控室経由。
台帳箱搬入後、本人帰着未確認。
捜索灯、継続。
夜勤賃金、控え階段退室処理による精算不可。
赤い文字が、今度は壁ではなく扉の金具に浮いた。
候補者控室帰路確認欄。
確認者、王太子府儀礼補助官。
補助官名、略号E。
署名原本、儀礼準備廊奥帳簿へ移送済。
エルミア。
誰も、その名を口にしなかった。
聖女を責めるには、まだ早い。
略号が本人の同意なのか、誰かが彼女の名を鍵として使ったのか、まだ読めていない。
だからリディアは、名を断罪へ使わず、白札へ戻した。
略号E。
本人署名か、代理署名か、未確認。
帰路確認者としての責任範囲、生活影響明細未添付。
「聖女様を犯人にする札ではありません」
リディアはミナに、そして自分にも言うように続けた。
「誰の名で、誰が帰れたことにされたのかを読む札です」
候補者控室の白い椅子が、一脚だけ淡く光った。
その座面の裏に、爪で引っかいたような細い線があった。
帰れないなら、読んでいない。
ミナが息をのむ。
「私の字では、ありません」
「ええ」
リディアは、椅子ごと青い保留印で囲った。
「では、この部屋には、あなたの前にも、帰れないまま読了にされた候補者がいます」
小さな報酬は、確かにあった。
ミナの食事札が戻った。
半日賃金が未払いとして数え直された。
ロウの捜索灯は消えなかった。
けれど、候補者控室の椅子は六脚ある。
帰れないなら、読んでいない。
その傷は、一人分ではなかった。
扉の奥、儀礼準備廊のさらに先で、古い帳簿がひとりでに開く音がした。
奥帳簿、候補者帰路確認原本。
略号E、三件。
旧翻訳局出向番号、一件。
帰着未確認者、追加照会中。
リディアは青い保留印を握り直した。
「次は、略号Eを、聖女という役名ではなく、本人が何を読んで何を知らなかったのかへ戻します」




