未読鍵台帳の読了補助者
婚約契約管理室・未読鍵台帳。
その題名を、リディアは声に出さなかった。
声にした瞬間、台帳のほうがこちらを「読んだ」と言い張る気がしたからだ。
机の上に置かれた三枚の台帳片は、薄い紙なのに妙に重い。
一枚目、旧翻訳局筆頭校閲印の写し。
二枚目、候補者同意欄と同じ紙質の未読補助欄。
三枚目、黒い紐で閉じられた索引札。
リディアが索引札の紐に指をかけた瞬間、赤い文字が先に浮いた。
読了補助者、旧翻訳局より出向。
候補者説明、補助済。
本人異議、記載なし。
未読鍵台帳、読了扱いへ移行。
「移行しないでください」
ミナの声だった。
いつもより小さい。
それでも、赤い文字の上に、きちんと届いた。
「私は、その台帳を読んでいません」
王国契約核が、低く鳴る。
読了補助者立会により、候補者本人の読了能力を補助。
異議記載なし。
同意欄、説明済みとして扱う。
「違います」
ミナは両手で自分の白札を押さえた。
「読めないまま黙ったことと、読んで断れることは、違います」
リディアは、息を吸った。
今、同じことを自分が言えば、翻訳官の正しい説明になる。
けれど、ミナが言ったから、これは候補者本人の生活に戻る。
「その通りです」
リディアは青い保留印の横に、新しい白札を三枚置いた。
一枚目に書く。
読ませた声。
「読了補助者、という語は、人名ではありません。誰が、どの文章を、どの順番で、どの言葉を省かずに読んだのか。その声が必要です」
二枚目。
質問できた時刻。
「読んだと言うなら、分からないと聞ける時間があったはずです。質問を止めたなら、それは読了ではなく、未読の固定です」
三枚目。
断った後の帰路。
トマが顔を上げる。
「帰路、ですか」
「ええ。候補者が断った時、部屋を出られるのか。食事札は残るのか。半日賃金は払われるのか。宿へ戻る道を誰が保証するのか。それがない同意欄は、同意ではありません」
赤い文字が、ミナの候補者同意欄へ食い込もうとした。
候補者ミナ・レイス、説明済。
旧翻訳局出向者により読了補助。
同意準備、完了。
「完了ではありません」
リディアは三枚の白札を、未読補助欄の上に重ねた。
「読了補助者を、人名ではなく生活影響明細へ戻します。まず、補助者は何を読みましたか。候補者はどこで聞きましたか。質問は何回できますか。断った場合、ミナさんの朝食札と半日賃金と写字机使用権は、誰が保証しますか」
ユアンの捜索灯が、かすかに強くなった。
「ロウさんは」
彼は、言葉を探してから続けた。
「ロウさんの帰着条件も、読了補助の下に入れられていました。読ませたことにされた人がいるなら、運んだことにされた人も、いるんですよね」
「います」
リディアは、四枚目の白札を追加した。
説明経路上の未帰着者。
「読了補助者が旧翻訳局から出向したなら、その人は台帳だけを動かしたわけではありません。紙を運んだ人、鍵を開けた人、部屋まで案内した人、帰れたか確認した人がいます。ロウさんの捜索灯は、ここでも消えません」
赤い文字が、一瞬、にじんだ。
読了補助者、旧翻訳局出向番号あり。
個人名、管理室照会中。
候補者説明、補助済。
「番号で逃げないでください」
トマが、鍵管理係の札をそっと前へ出した。
「鍵を貸した相手を部署名だけで済ませると、返した人が消えます。出向番号だけで済ませると、読ませた人も、読まされた人も、消えます」
リディアはうなずいた。
「出向番号を、勤務記録へ戻します」
白札に、縦に書く。
出向命令を出した部署。
説明場所。
説明時刻。
賃金支払い元。
帰路確認者。
「旧翻訳局より出向、という言葉はきれいです。でも実際には、誰かが部屋を出て、誰かの前に立ち、誰かの同意欄を動かしました。なら、その足跡は生活の側に残ります」
王国契約核が、低く、嫌な音を立てた。
生活影響明細、未添付。
本人質問権、未記載。
拒否後帰路、未記載。
説明済み扱い、保留。
ぱしん。
青い保留印が、ミナの候補者同意欄に落ちた。
候補者ミナ・レイス。
本人未読。
質問権未付与。
拒否後帰路未記載。
読了扱い不可。
ミナは、唇を噛んだまま、白札の端に自分で小さく書き足した。
読めるまで、同意しません。
その一行は、魔法文字ではない。
古代語でもない。
けれど契約核の赤い文字は、その上を通れなかった。
「……通りました」
ユアンが言った。
「いえ。通らなかった、のです」
リディアは、ミナの字を見つめた。
「それが大事です」
アデル・ヴァイスの旧校閲印写しにも、青い影が差す。
旧筆頭校閲印写し。
本人説明の証拠として使用不可。
旧職能印使用履歴として保全。
本人帰着確認まで責任移管不可。
ロウ・カイルの行も、細く光った。
説明経路上の未帰着者。
捜索灯、継続。
夜勤賃金、読了補助処理による精算不可。
小さな報酬だった。
ミナが読んだことにされなかった。
アデルの印が、本人の声にされなかった。
ロウの灯が、また一本だけ残った。
けれど、その一本が残るたびに、王国契約核のきれいな完了語は、少しずつ生活の床へ落ちていく。
赤い文字が最後に、索引札の下へ逃げた。
旧翻訳局出向番号、生活影響明細提出まで処理停止。
照会先、王太子府婚約契約管理室。
説明場所、候補者控室。
帰路確認欄、未開示。
ミナの顔から、色が引いた。
「候補者控室……私が、最初に待たされた部屋です」
リディアは、索引札を閉じなかった。
読ませた者を探す話では、もうない。
断った後に帰れない部屋で、誰を読了にしたのか。
その帰路確認欄を、次に読まなければならない。
「次は」
リディアは青い保留印を持ち直した。
「候補者控室から、誰が帰れたことにされたのかを読みます」




