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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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旧筆頭翻訳官アデルの本人帰着欄

旧筆頭翻訳官、アデル・ヴァイス。


 退職処理済み。


 職能権限返納先、王国契約核地下写字室。


 本人帰着欄――空白。


 その四行は、紙の上では静かだった。

 けれど、リディアには、閉じ込められた扉を内側から叩く音に聞こえた。


「アデル様は、私の前任です」


 リディアは退職処理台帳から目を離さずに言った。


「古代語契約の最終校閲を、十七年担当された方です。私が新人のころ、禁室の写字台で、句点ひとつの重さを教えてくださった」


 ミナが白札を胸に抱いた。


「その方も、退職処理済みに……?」


「退職された、とは聞いていました」


 リディアは指先で、赤い印の縁をなぞった。


 紙の繊維が、右上へ逃げるように潰れている。

 自分の辞表に押された印と同じ癖。

 未読写しを開封済みにした印と同じ癖。


「でも、帰着したとは聞いていません」


 その一言で、机の周りにいた者たちが息を止めた。


 退職した。

 返納した。

 確認済み。


 王宮は、そういう言葉を並べるのが上手い。

 並べられた言葉の下に、本人が歩いて帰ったかどうかを書く欄がなくても、書類はきれいに見える。


「本人帰着欄が空白なら、まず捜索記録を開くべきです」


 若い書記官が、慌てて別冊の索引をめくった。


「旧筆頭翻訳官アデル・ヴァイス、退職日……ありました。退職処理済み。職能権限返納確認済み。捜索記録は……」


 彼の指が止まる。


「捜索不要」


 ミナが顔を上げた。


「どうしてですか」


「理由欄は」


 リディアが促すと、書記官は青ざめた声で読んだ。


「『退職処理済み者につき、王宮職員帰着確認対象外。旧職能権限は王国契約核地下写字室へ返納済み。最終確認、王太子府婚約契約管理室』」


 ユアン・リットが、捜索灯の下で唇を噛んだ。


「本人が帰ったかどうかではなく、権限が返納されたから、捜さなくていいことにしたんですか」


「そう読めます」


 リディアは、自分の声が思ったより低いことに気づいた。


 怒鳴りたくはなかった。

 怒鳴れば、紙はもっと静かになる。


 だから、欄に分ける。

 人を消す言葉を、生活の手順へ戻す。


「三つに分けます」


 リディアは新しい紙を置いた。


 一、アデル・ヴァイス本人の退職意思。

 二、旧筆頭翻訳官職能権限の返納先。

 三、本人帰着確認と、帰着しない場合の捜索義務。


「第一欄。本人の退職意思は、原本を確認するまで保留です。写しだけでは足りません」


 青い線を引く。


「第二欄。職能権限の返納先。王国契約核地下写字室とあります。では、写字室は何を受け取ったのか。印章なのか、校閲ログなのか、責任なのか。ここも明細がありません」


 もう一本、線を引く。


「第三欄。本人帰着。空白です」


 リディアは、そこだけ少し太く囲んだ。


「この空白を、退職処理済みの下に沈めてはいけません」


 その瞬間、契約核が低く鳴った。


 机の端に積まれていた古い生活札の束が、ぱらぱらと開く。


 薬棚閲覧札。

 朝水優先札。

 夜勤賃金確認札。

 町側証人控え。


 どれも古い。

 端が黄ばみ、アデル・ヴァイスの細い確認線が残っている。


 その札の上に、赤い文字が浮き始めた。


 旧確認者、退職処理済み。

 確認効力、終了。

 関連生活札、再照合まで停止。


「止まります!」


 井戸番が叫んだ。


「今朝水の仮札まで白くなっています。アデル様の古い確認線が根拠だった分が、まとめて……」


「読ませてください」


 リディアは札束を受け取った。


 古い朝水優先札には、短い補助文があった。


 乳幼児、発熱者、夜勤明けの水番は、契約核再照合中も朝水一桶を止めないこと。


 アデルの筆跡だった。

 昔、禁室で見た、迷いの少ない細い線。


 その線が今、退職処理済みという赤い語で消されようとしている。


「アデル様の確認線を、本人帰着済みの証拠に使ってはいけません」


 リディアは言った。


「でも、アデル様が残した生活保護の効力まで、一緒に消してもいけません」


 ミナがはっとした。


「本人は帰っていないかもしれない。でも、その人が守った朝水や薬は、今も人に届いている」


「そうです」


 リディアは青い保留印を取った。


「だから、仮規則を出します」


 紙の上に、欄を増やす。


 旧職能者本人帰着未確認。

 既存生活保護線、暫定有効。

 ただし、当該線を本人帰着済み・読了済み・責任返納済みの根拠にしてはならない。

 捜索義務、継続。

 証言資格、保持。

 責任部署、王国契約核地下写字室および王太子府婚約契約管理室の双方に保留照会。


 書き終えたとき、白くなりかけていた朝水札の縁に、色が戻った。


 井戸番が、札を見て息を吐く。


「明日の朝水、一桶分、残りました」


 薬師が古い薬棚閲覧札を持ち上げた。


「発熱者の夜薬も、止まりません。アデル様の線は、まだ効いています」


「効いています」


 リディアはうなずいた。


「けれど、アデル様が帰った証拠ではありません」


 その区別を、部屋の全員が聞いていた。


 守る。

 でも、閉じない。


 効力を残す。

 でも、本人を処理済みにしない。


 それは、細い橋の上を歩くような判断だった。

 けれど、橋を架けなければ、今夜の薬も、明日の水も、アデルの名前も、同じ赤い語の下へ落ちる。


「アデル様は、証言できる人として扱います」


 リディアは空白欄の横へ、青い字で書いた。


 本人帰着未確認。証言資格、未喪失。


 若い書記官が、震える筆で同じ文を控えに写す。


「未帰着の人にも、証言資格があるのですか」


「あります」


 リディアは即答した。


「帰っていないからこそ、あります。帰っていない理由を、王宮が勝手に処理済みにしてよいはずがありません」


 ユアンが、捜索灯の青い札を見上げた。


「ロウさんと同じですね」


「同じです」


 リディアは、アデルの名とロウの名を、同じ紙の上に置いた。


 旧筆頭翻訳官、アデル・ヴァイス。

 夜勤運搬人、ロウ・カイル。


 肩書きは違う。

 年齢も、仕事も、運んだものも違う。


 けれど、同じ赤い処理語で、帰ったことにされかけている。


「処理済みの下に、人がいます」


 リディアの声は、今度は震えなかった。


「職能者も、運搬人も、候補者も、井戸番も。帰着欄が空白のままなら、その空白は失敗ではありません。捜す義務と、聞くべき証言が残っているという印です」


 契約核が、また鳴った。


 今度は、低い音のあとに、古い棚が開く音が続いた。


 王国契約核地下写字室。


 その名が、退職処理台帳の下段に浮かぶ。


 返納確認時刻、深夜二刻三十七分。


 リディアは、息を止めた。


 二刻三十七分。


 ロウ・カイルの訂正線が引かれた時刻。

 未読写しが開封済みにされた時刻。

 自分の退職処理済み印と同じ角度の印が押された時刻。


 そして、アデル・ヴァイスの職能権限返納確認時刻。


 四つの線が、同じ時刻へ重なる。


 ミナが、小さく言った。


「同じ夜に、全部……?」


「まだ、同じ夜とは限りません」


 リディアは紙を消さなかった。

 消してはいけない。


「でも、同じ時刻として処理されています」


 彼女は青い保留印を、時刻欄の横へ押した。


 二刻三十七分。

 同時処理疑義。

 地下写字室返納確認者、未記載。

 王太子府婚約契約管理室、生活影響明細未添付。


 すると、台帳の奥から、もう一枚だけ薄い紙片が滑り出た。


 古い写字室入退室札。


 アデル・ヴァイスの名の下に、空白の同行者欄。

 その横に、赤い印。


 最終確認済み。


 ただし、本人筆跡欄はない。


 リディアは、その空白を青く囲んだ。


「次は、地下写字室です」


 廊下の捜索灯が、一本増えた。


 アデル・ヴァイス。


 その名が、処理済みの下から、まだ帰っていない人の名として、静かに呼ばれた。

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