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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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地下写字室の同行者欄

地下写字室の入退室札は、薄い羊皮紙ではなく、硬い白木の札だった。


 名前欄。

 時刻欄。

 同行者欄。

 本人筆跡欄。

 最終確認印。


 五つの枠が、古代語の細い罫線で分けられている。


 アデル・ヴァイスの名は、確かにそこにあった。

 返納確認時刻は、深夜二刻三十七分。

 同行者欄は、空白。

 本人筆跡欄も、空白。


 そして、右下にだけ赤い印が押されている。


 最終確認済み。


「名前があるなら、アデル様は地下写字室に入った、ということでは」


 若い書記官が、恐る恐る言った。

 悪意ではない。

 王宮の書類は、そう読ませるために作られている。


 リディアは首を横に振った。


「違います」


 強く言いすぎないように、息を一つ置く。

 人を消す書類ほど、きれいな声で読まなければならない。


「これは、アデル様の名義で地下写字室の手続きが処理された記録です。アデル様ご本人が、歩いて入り、読んで、書いて、帰った証拠ではありません」


 ユアン・リットが、捜索灯の札を持ち直した。


「名前欄と、本人欄は、別なんですね」


「別です」


 リディアは白木札の中央を指した。


「本人筆跡欄があるのは、写字室に入った者が、最後に自分の手で一行写すためです。古代語契約は、目で読んだ者と、手で写した者と、最終印を押した者を分けます。間違えた時に、誰の責任で生活札が動いたのか追えるように」


 ミナが小さく息をのんだ。


「では、筆跡欄が空白なら」


「本人確認は終わっていません」


 リディアは青い保留印を出した。


「それなのに最終確認済み印だけがある。つまり、終わったのは室内処理です。本人確認ではありません」


 その時、写字室の管理係が慌てて口を開いた。


「し、しかし、昔は多忙な時期に、高位翻訳官の筆跡欄を後回しにする慣例がありまして。最終印があれば、実務上は――」


「実務上は、誰が助かりましたか」


 リディアは遮らなかった。

 ただ、問いの向きを変えた。


 管理係は言葉を失った。


「その慣例で、薬棚札は誰の確認で開いたのですか。朝水優先札は、誰の判断で止まらなかったのですか。夜勤賃金札は、誰の責任で支払われたのですか」


 白木札の横に、古い生活札を三枚並べる。


 薬棚閲覧札。

 朝水優先札。

 夜勤賃金確認札。


 アデルの細い確認線が残る三枚だ。

 昨日まで人を守っていた線が、退職処理済みという赤い語で、まとめて消されかけた線でもある。


「慣例で空けた欄なら、慣例を作った部署が責任を持つべきです」


 リディアは言った。


「でもこの札は、責任だけを空白にしています。アデル様の名は使う。アデル様の確認線で生活札を動かす。けれど、アデル様が本当にそこにいたか、誰が同行したか、誰が代わりに最終印を押したかは、誰も書かない」


 契約核が、低く鳴った。


 白木札の空白欄に、赤い文字が浮かびかける。


 同行者なし。

 本人確認済みとみなす。

 関連生活札、旧確認者退職により停止。


「みなす、では困ります」


 リディアは青い保留印を、まだ乾いていない赤い文字の横へ押した。


「ここは、みなしてよい欄ではありません」


 ぱしん、と小さな音がして、赤い文字が止まった。


 井戸番が胸を押さえた。


「朝水札が……白くなりかけて、戻りました」


 薬師が薬棚閲覧札を確かめる。


「発熱者の夜薬も、今夜分は出せます」


「夜勤賃金札も」


 ユアンが言った。


「ロウさんの半日賃金、未帰着保留のまま残っています。精算済みに落ちていません」


 完全な勝利ではない。

 アデルがどこにいるか、まだ分からない。

 ロウも帰っていない。

 リディア自身の退職処理済み印も、消えてはいない。


 それでも、今夜の薬が出る。

 明日の朝水が一桶残る。

 未帰着の人の賃金が、精算済みという穴へ落ちない。


 リディアは、それを勝利として数えることにした。

 大きな扉を開ける前に、小さな生活が落ちないようにする。

 それが、翻訳官の仕事だった。


「分類を変更します」


 彼女は新しい紙を置いた。


 一、地下写字室入室名義、アデル・ヴァイス。

 二、本人筆跡欄、空白。

 三、同行者欄、空白。

 四、最終確認印、押印者未特定。

 五、本記録は本人帰着済みの証拠ではない。

 六、関連生活保護線は暫定有効。ただし、当該線を本人確認済みの根拠にしてはならない。


 書記官が、震える手で復唱する。


「本人帰着済みの証拠ではない。関連生活保護線は暫定有効……」


「さらに一行」


 リディアは白木札の空白を見た。


「同行者欄空白につき、責任者未記載。地下写字室管理係、王国契約局、王太子府婚約契約管理室へ照会。照会が終わるまで、最終確認済み印をもって生活札を停止してはならない」


 青い字が契約核へ沈む。


 今度は、部屋の奥で古い鍵が揺れる音がした。


 管理係の顔色が変わった。


「鍵束……」


「鍵束?」


 ミナが聞き返す。


 管理係は、もう隠せないと悟ったように、奥の棚から小さな鉄輪を取り出した。

 そこには、地下写字室の予備鍵貸出票が結ばれている。


 リディアは、貸出票を開いた。


 深夜二刻三十七分。

 地下写字室予備鍵一束、貸出。

 借受人欄――王国契約局。


 個人名はない。


 返却確認印だけが、赤く残っている。


 王太子府婚約契約管理室、確認済み。


 リディアは、指先が冷えるのを感じた。

 同行者欄が空白なのではない。

 同行した者を、部署名の中へ隠している。


「次に開くのは、鍵束貸出票です」


 彼女は言った。


 捜索灯の青い明かりが、白木札から鉄の鍵束へ移った。


 アデル・ヴァイスの名の隣で、まだ書かれていない同行者の欄が、誰かの沈黙を告発するように白く残っていた。

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