退職処理済み印は、誰の権限を返したのか
開封済み印の端に、紙の繊維を潰した小さな癖があった。
右上へ半歩だけ逃げるような角度。印面を押す者が、最後に親指を引く癖。
リディアは未読写しの封筒を机に置き、その横へ自分の辞表写しを並べた。
辞表の末尾にある「退職処理済み」の赤印も、同じ角度で紙を噛んでいた。
「……同じ印ですか」
ミナが息を呑む。
「同じ印面ではありません。けれど、同じ手順で押されています」
リディアは青い保留印を指先で押さえた。
「問題はそこです。これは『リディア・アルヴェンは王宮翻訳官を辞めた』という印ではない」
「え」
「王宮側が、私の退職を、別の棚へ移した印です」
返却済み。帰着済み。開封済み。
この三日で、王宮は何度も同じことをした。
物が棚に戻れば、人も戻ったことにする。
封筒が開けば、本人が読んだことにする。
荷札が届けば、運んだ者の夜勤賃金も捜索灯も閉じる。
ならば、退職処理済みとは何を閉じる言葉なのか。
リディアは自分の名前を見た。
軽いはずの紙が、胸の内側に冷たい棚を作った。
私は、もう王宮の机にはいない。
けれど王宮の奥では、まだ私の手が残っていることにされている。
「退職者の生活札照会を開いてください」
町側証人として残っていた井戸番が、すぐに古い札束を差し出した。
宿札。朝水札。薬棚閲覧札。町側証人印の仮使用札。
そのうち二枚の縁が、薄く白くなっていた。
「白い……?」
「停止しかけています」
リディアは声を落とした。
「理由欄は」
ユアンが写字板を覗き込み、唇を噛んだ。
「退職処理済み者につき、王宮職員生活補助の対象外。……でも、下に別欄があります。『旧翻訳官職能権限、一時保管中』」
「読んで」
「『契約核復旧まで、旧職能権限は王太子府婚約契約管理室において保管する。権限保管中、当該権限に紐づく確認責任は旧名義人に残置する』」
部屋の空気が、ひとつ遅れて凍った。
「つまり」ミナが両手を握った。「生活からは退職者として外して、責任だけはリディア様の名前に残す、ということですか」
「そう読めます」
「そんなの、辞めたことになりません!」
「いいえ。王宮は辞めたことにはしたいのです」
リディアは辞表写しを三つに分けるように指でなぞった。
「本人退職。職能権限返納。生活影響確認。この三つを一枚の『退職処理済み』で閉じている」
ロウ・カイルの捜索灯保留札が、机の端で小さく揺れた。
彼はまだ帰っていない。
それなのに、彼が運んだ未読写しは開封済みにされた。
そして今、その開封済みの根拠に、リディアの退職処理済み印が使われている。
「私の名前を、まだ読んでいない書類の読了印に使った。ロウさんの帰着を閉じるために。ミナさんの賃金を止めるために。夜薬と朝水を、王宮の復旧手順へ吸わせるために」
言葉にした瞬間、リディアの指先が震えた。
怒りだけではない。
自分の仕事が、だれかを救うための責任ではなく、だれかを黙らせる鍵にされていたことへの、薄い吐き気だった。
「リディア様」
「大丈夫です」
リディアは息を整え、青い保留印を新しい白紙の上へ置いた。
「では、退職処理済み印を生活側へ戻します」
彼女は大きく三つの欄を書いた。
一、本人退職届の受理。
二、職能権限の返納先と確認者。
三、生活影響明細と未読異議欄。
「第一欄。本人退職届は受理されています。これは私が王宮の机を離れた事実です」
リディアはそこへ小さく丸をつけた。
「第二欄。職能権限の返納先。ここは空白です。王太子府婚約契約管理室が『保管中』と書いているだけで、誰が受け取り、何を確認し、どの生活手順を動かす責任を持つのか、明細がない」
青い線を引く。
「第三欄。生活影響。退職者だから宿札を止める、旧職能権限保管中だから確認責任だけ残す。これは同時に成立しません」
「どうしますか」
「仮規則を出します」
リディアは筆を取った。
「『退職処理済み』の一語をもって、本人の宿札・朝水札・薬札・夜勤賃金・町側証人資格を停止してはならない。旧職能権限を保管する部署は、生活影響明細、本人未読異議欄、返納責任者名を添付するまで、当該権限を読了・開封・帰着・返却の根拠にしてはならない」
ミナが顔を上げた。
「それなら、リディア様の名前で、ロウさんの未帰着を閉じられません」
「ミナさんの半日賃金も、候補者準備費へ戻せません」
ユアンが続ける。
「夜薬二本も、開封済み写しの復旧材料にできない」
「そうです」
リディアは白くなりかけた宿札へ青い保留印を押した。
紙の色が戻る。
朝水札の縁にも青い線を足す。
井戸番が、安堵で肩を落とした。
「明日の朝水、止まりませんね」
「止めません」
リディアは初めて、はっきりと言った。
「私が辞めたことは、私の生活と名前を王宮から取り戻すための手続きです。王宮が、私の名前だけを奥に残してよい理由ではありません」
その言葉に、部屋の誰かが小さく息を吐いた。
たぶん、自分もだった。
机の上に、青い仮規則が一枚増える。
宿。水。薬。賃金。証人資格。
どれも大きな勝利ではない。
けれど、明日の朝に誰かが起きるための、閉じてはいけない欄だった。
そのとき、退職処理台帳の下段が淡く光った。
保留印に押し返された赤い文字の下から、古い一行が浮き上がる。
旧筆頭翻訳官、アデル・ヴァイス。
退職処理済み。
職能権限返納先、王国契約核地下写字室。
本人帰着欄――空白。
ミナが震える声で読んだ。
「リディア様……アデル様も、帰っていないことにされています」
「違います」
リディアは青い保留印を、まだ乾いていない赤文字の横へ押した。
「帰っていないのに、帰したことにされています」
そして、空白欄のさらに奥で、見覚えのある印角度がもう一度だけ光った。
王太子府婚約契約管理室。
旧職能権限返納・最終確認済み。




