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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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未読写しの開封済み処理

未読写し。


 開封済み処理。


 その二つの言葉が同じ荷札の裏に並んでいるだけで、廊下の空気は一段、冷たくなった。


 読むために写したものが、読まれる前に開けられている。

 開けられたことにされている。

 そして、その処理を運んだロウ・カイルは、まだ帰っていない。


「未読、なのに開封済み……?」


 ミナが白札を胸に抱きしめた。


「それは、どういう意味ですか。箱を開けたけれど、中身は読んでいない、ということですか」


「普通なら、そう書き分けます」


 リディアは荷札を廊下の灯りへ近づけた。


 赤い開封済み印は、紙の角から少しだけ斜めに落ちている。押した人間が急いだのか、わざと余白へ逃がしたのか、印影の端だけが古代語の補助行にかかっていた。


 開封済み。

 読了者、旧翻訳局最終校閲官権限。

 到達確認、済。


 リディアは、息を吸うのを忘れた。


 旧翻訳局最終校閲官権限。


 それは、彼女が辞表を出す前まで、最後に使っていた権限名だった。


 王宮では、職名は人の名前より長く残る。

 誰が読んだかではなく、どの権限で読まれたことにするか。

 誰が責任を負うかではなく、どの欄へ責任を押しこめるか。


 だからこそ、リディアは辞表の日に、権限返納の行まで確認したはずだった。


「……私は、この写しを読んでいません」


 声にすると、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 読んでいないものを、読んだことにされる。

 それは、知らない罪を着せられるだけではない。

 読んでいない誰かの生活が、彼女の職能で閉じられるということだ。


 若い書記官が、帰着簿と荷札を見比べて青ざめた。


「ですが、開封済み処理があるなら、最終校閲ログは到達済みです。到達済みなら、二刻三十七分の訂正線も、代理鍵保管箱の返却も、処理としては……」


「閉じられる?」


 リディアは問い返した。


 書記官の喉が鳴った。


「……通常なら」


「通常という言葉で、誰が消えますか」


 廊下の奥で、捜索灯が一度だけ弱く揺れた。


 青い保留札のついた灯りだ。

 ロウ・カイルのために、まだ消してはいけない一本。


 その灯りの下で、契約核の低い音が変わった。


 ぎい、と紙を押し潰すような音。

 帰着簿の空白に、赤い文字が浮こうとしている。


 未読写し。

 開封済み。

 旧翻訳局最終校閲官権限、読了。

 運搬任務、完了。


「待ってください!」


 ミナが先に叫んだ。


 彼女の白札が、震えながら荷札の上に重なる。


「ロウさんは、読了者じゃありません。運んだ人です。運んだ人が帰っていないのに、読了者欄が閉じたら、ロウさんの欄まで終わってしまいます」


「そのとおりです」


 リディアは筆を取った。


 赤い文字が浮ききる前に、荷札と帰着簿のあいだへ新しい欄を開く。


 開封状態。

 読了状態。

 権限使用。

 本人未読異議。

 運搬人帰着。

 捜索義務。

 夜勤賃金。

 証言資格。


 細い欄ばかりだった。

 王宮の大きな印章と比べれば、頼りない線だ。


 けれど、線がなければ、人は赤い処理語の下に沈む。


「開封状態、物理開封済み」


 リディアは一つずつ読み上げた。


「読了状態、本人未読。権限使用、本人未承認。本人未読異議、リディア・フェルン本人により提出」


 筆先が、少しだけ止まった。


 自分の名をこうして守るのは、思ったより難しい。


 これまでリディアは、薬札や井戸札、食事札や賃金札を守ってきた。ミナの署名しない権利を守り、ユアンの未帰着を守り、ロウの捜索灯を守った。


 その同じ手順を、自分の名前へ向ける。


 退職したはずの職能。

 返したはずの権限。

 もう誰かの生活を勝手に閉じる材料にされないはずの名前。


「リディア様」


 ユアン・リットが、階段脇から小さく言った。


「それは、あなたが自分を守る欄ですか」


「いいえ」


 リディアは首を振った。


「私だけではありません」


 荷札の紐を、そっと帰着簿の端へ結び直す。


「読んでいない人を読了者にしない欄です。運んだ人を帰着済みにしない欄です。誰かの権限で生活が動くなら、その本人が何を読んだか、何を承認したか、誰が帰っていないかを残す欄です」


 ミナが、白札に一行を足した。


 本人未読のまま、候補者同意欄へ使わないこと。


 ユアンも震える手で、青い札へ書いた。


 運搬人本人未帰着。捜索灯、継続。


 若い書記官は、しばらく筆を握ったまま動かなかった。

 やがて彼は、王宮の書式帳を閉じた。


「通常書式には、本人未読異議欄がありません」


「なら、通常書式が足りません」


「……はい」


 彼は顔を上げた。


「足りません」


 その言葉と同時に、消えかけていた捜索灯が戻った。


 一本だけではない。

 廊下の曲がり角にあった小さな補助灯が、青く明滅した。


 門衛が驚いたように振り向く。


「ロウ・カイルの夜勤賃金袋が、無断不在箱へ落ちる直前で止まりました。青札がかかっています」


「読み上げてください」


 リディアが言うと、門衛は灯りの下の小札を見た。


「夜勤賃金、差止め不可。本人未帰着。捜索義務、継続。証言資格、保持」


 ユアンが、唇を噛んで笑った。


「ロウさんは、まだ賃金を奪われていないんですね」


「まだ、王宮が帰す責任を負っています」


 リディアはそう答えた。


 小さな報酬だった。


 ロウ本人が戻ったわけではない。

 最終校閲ログの中身を読めたわけでもない。

 犯人の名が分かったわけでもない。


 けれど、捜索灯が一本増え、夜勤賃金袋が無断不在箱へ落ちず、彼の証言資格はまだ生きている。


 未読のまま、閉じられなかった。

 未帰着のまま、消されなかった。


 それだけで、廊下にいた人たちの息が少し戻った。


「リディア様」


 ミナが荷札の赤い印を指した。


「この開封済み印、少し変です。普通の管理室印より、角度が……」


「分かります」


 リディアは言った。


 分かってしまう。


 彼女はその角度を、見たことがあった。


 辞表を出した朝、王宮人事局の小窓で押された印。

 もうあなたの権限は返納済みです、と笑顔で告げられた時、書類の右下に落ちた赤い印。


 退職処理済み。


 あの印と、同じ傾きだった。


 リディアは、開封済み印を消さなかった。


 消せば、同じ角度で誰が何を閉じたのか分からなくなる。


 だから、その横に青い欄を足す。


 開封済み処理。

 本人未読異議あり。

 退職処理済み印との印影角度一致。

 責任部署、未確認。


 契約核が、低く鳴った。


 今度の音は、閉じる音ではない。

 古い扉の向こうで、誰かが鍵束を落としたような音だった。


 若い書記官が、震えた声で言う。


「退職処理済み印は、権限返納の印ではなかった、ということですか」


 リディアは荷札を見つめた。


 未読写し。

 開封済み処理。

 旧翻訳局最終校閲官権限、読了。


 そのすべてが、彼女の知らないところで彼女の名前を使っている。


「まだ断定しません」


 リディアは言った。


「断定すれば、また誰かの欄を早く閉じることになります」


 青い保留印を、最後に一つ押す。


「ただし、この開封済み処理は、私が読んだ証拠ではありません。ロウ・カイルが帰った証拠でもありません。誰かが、私の退職処理済み印と同じ角度で、未読を読了へ変えようとした証拠です」


 廊下の奥で、捜索灯が二本、青く並んだ。


 そして、荷札の古代語のさらに下から、薄い補助行が浮かび上がる。


 退職処理済み。

 権限返納済み。

 旧翻訳局最終校閲官権限、王太子府婚約契約管理室へ一時保管。


 リディアは、その一文をまだ読んでいなかった。


 けれど王宮はもう、読まれたことにしていた。

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