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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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二刻三十七分の訂正線

深夜二刻三十七分。


 その一分だけが、帰着簿の上で細く殺されていた。


 二刻三十六分の赤い「帰着済み」は、下級写字係十二名、夜勤運搬人四名、証人候補三名をまとめて飲みこんでいる。けれど、そのすぐ下にあったはずの一行だけ、横へ薄く削られ、黒い訂正線で塞がれていた。


 代理鍵保管箱。

 返却済み。

 時刻訂正済み。


 綺麗な言葉が三つ並ぶほど、廊下は寒くなる。


「誤記です」


 王太子府管理室の若い書記官が、疲れた声で言った。


「二刻三十七分の記録は、二刻三十六分の一括帰着と重複しています。代理鍵保管箱は返却済み、旧翻訳局の者も退庁済み。訂正線は、処理を閉じるための通常手順です」


 彼は嘘をついている顔ではなかった。

 嘘より悪いものがある。

 自分の手で誰かを消していると知らないまま、正しい欄に正しい線を引くことだ。


 リディアは訂正線を消さなかった。


 消せば、誰がその一分を消そうとしたのか分からなくなる。

 線は証拠だ。問題は、線の横に何も書かれていないことだった。


「訂正とは、消すことではありません」


 リディアは帰着簿の余白に、青い保留印を押した。


「誰の生活条件を、どこからどこへ移したのかを残す言葉です」


 細い筆で、訂正線の横に欄を開く。


 訂正対象。

 訂正理由。

 荷札到達。

 本人返答。

 捜索義務。

 賃金差止め不可。

 証言資格保持。


 ミナが白札を抱いたまま、息を止めた。


「線の横に、そんな欄を作ってもいいんですか」


「作らなければ、線が人を食べます」


 リディアは床に置かれた小さな荷札を拾った。


 紙の角は濡れていた。紐は片方だけ切れ、もう片方には固い結び目が残っている。赤い返却印が、名前欄の上から斜めに押されていた。物品番号は読めるのに、名前だけが読みにくい。


 ユアン・リットが、階段脇の帳簿棚に片手をついて立ち上がった。

 さきほど未帰着札に自分の名を書いたばかりの下級写字係だ。顔色はまだ悪い。けれど、荷札を見る目だけははっきりしていた。


「その結び方は、運搬人の人が自分で結ぶものです」


「なぜ分かりますか」


「荷物を受け取った写字係は、箱側の紐を二重にします。でも、運搬人は帰り道で片手を空けるために、片側だけを解けるように結びます。……ロウさんが、いつもそうしていました」


「ロウさん」


「ロウ・カイル。夜勤運搬人です。第三棚と代理鍵保管箱のあいだを運ぶ人で、雨の日は、荷札を外套の内側に入れてくれます。インクが流れると、誰の責任か分からなくなるからって」


 ミナが荷札の濡れた角を、そっと布で押さえた。


 名前欄の赤い印の下から、かすれた文字が浮いた。


 ロウ・カイル。


 その名が出た瞬間、若い書記官の顔から血の気が引いた。


「しかし、夜勤運搬人四名は二刻三十六分に退庁済みで」


「退庁済みと、荷札到達は同じではありません」


 リディアは荷札を帰着簿の横に置いた。


「箱が戻ったこと。荷札が届いたこと。運搬人が帰ったこと。王宮は、その三つを一つの返却済みに畳んでいます」


「でも、箱は空でも、箱自体は返却されています」


「空の箱が返ることと、箱を運んだ人が帰ることは違います」


 リディアは欄に書き入れた。


 荷札到達。

 本人未帰着。

 ロウ・カイル。

 捜索義務、継続。

 夜勤賃金、差止め不可。

 証言資格、保持。


 書記官が唇を噛んだ。


「このままでは、管理室の帳簿が合いません。二刻三十六分の一括処理を開いたままにすると、明朝の勤務札も、代理鍵の再発行も止まります」


「合わないのは帳簿ではありません」


 リディアは、廊下の消えかけた捜索灯を見た。


「人が帰っていないのに、帳簿だけが閉じているのです」


 門衛が一歩、前へ出た。

 彼はさきほどまで、赤い帰着印を写しただけだと震えていた男だ。


「……捜索灯を、一本戻します」


 彼は壁際の灯火台に手を伸ばした。帰着済みなら消されるはずの灯りを、廊下の奥へ向け直す。


 青い保留札が、灯火台の金具に結ばれた。


 捜索灯保留札。

 荷札到達・本人未帰着。


 小さな札だった。

 王宮の赤い印に比べれば、薄く、頼りなく、すぐ破れそうに見える。


 けれど、その灯りが廊下の奥を照らしたとき、ユアンが小さく息を吐いた。


「ロウさんは、まだ無断不在じゃないんですね」


「いいえ」


 リディアは言った。


「まだ、王宮が帰す責任を負っている人です」


 若い書記官は、帰着簿の前でしばらく動かなかった。

 やがて彼は、自分の筆を取った。


 赤い訂正線の横に、震える字で一行を加える。


 訂正理由、未確認。

 生活側到達条件、未完了。


 それだけで、契約核の低い音が少し変わった。


 怒りではない。

 閉じかけた戸に、誰かが内側から指をかけたような音だった。


「この荷札を、詳しく読ませてください」


 リディアは荷札を裏返した。


 赤い返却印の下、古代語の補助行が細く残っている。王宮事務語の翻訳では、省略された行だ。荷物の宛先を示すはずの一文が、わざと物品番号の陰に隠されていた。


 代理鍵保管箱へ。


 そう訳されていた言葉の前に、古い格助辞が一つある。

 箱ではない。

 箱を使って開くものへの格だ。


 リディアの指が止まった。


「違います」


「何がですか」


 ミナが顔を上げる。


「この荷札は、代理鍵保管箱の荷札ではありません」


 廊下の捜索灯が、濡れた紙の端を照らした。


 旧翻訳局最終校閲ログ。

 未読写し。

 開封済み処理。


 二刻三十七分。


 たった一分だけ消された線の先で、誰かは鍵を返したのではない。


 リディアたちがまだ読んでいないはずの最終校閲ログを、読んだことにして開けていた。


 そして、その荷札を運んだロウ・カイルは、まだ帰っていない。

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