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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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深夜二刻三十六分の帰着簿

深夜二刻三十六分。


 旧翻訳局の帰着簿には、その時刻だけが、妙に濃い赤で並んでいた。


 下級写字係十二名。

 夜勤運搬人四名。

 証人候補三名。


 全員の欄に、同じ角度の印で「帰着済み」と押されている。


 リディアは、その印の列を指でなぞらなかった。

 紙の上で帰ったことにされた人を、紙の上で確認してしまえば、王宮はそれを本当の帰宅として閉じてしまう。


「帰着済みなら、問題はないのでは」


 王太子府管理室の若い書記官が言った。

 疲れた声だった。責めるための声ではない。眠れず、叱られ続け、これ以上の未完了を見たくない者の声だった。


「門衛記録にも、深夜二刻三十六分の一括帰着処理があります。旧翻訳局の夜勤者は、全員退庁済みです」


「退庁と、帰着は同じではありません」


 リディアは帰着簿の余白に、細い線を引いた。


 門前到達。

 宿舎到達。

 本人返答。

 明朝勤務可否。

 賃金差止め不可。


 五つの小さな欄が、赤い「帰着済み」の横に並ぶ。


「帰着済みとは、何を終えた言葉ですか。門を出たことですか。宿舎の敷居をまたいだことですか。靴を脱いだことですか。自分の名前を呼ばれて、返事ができたことですか」


 書記官は黙った。


 リディアの隣で、ミナが白札を抱き直す。

 候補者同意欄を守るために青い保留印を押した指先には、まだ薄くインクが残っていた。


「帰っていない人が、帰ったことにされたら……」


 ミナの声が震えた。


「その人は、どこで困っていても、帳簿の上ではもう困っていないことになります」


 リディアはうなずいた。


「怪我をしても、王宮内の事故ではありません。賃金が止まっても、無断欠勤です。証言を求められても、退庁済みです。帰着済みという綺麗な言葉で、人は王宮の責任範囲から押し出されます」


 契約核の奥で、低い音が鳴った。

 怒ったような音ではない。

 古い机が、長く載せられていた重石を少しだけずらしたような音だった。


 リディアは旧翻訳局の扉を開けた。


 廊下は冷えていた。

 夜勤の灯りは半分だけ残り、消された燭台の下に、紙屑と靴跡が続いている。


 赤い印の時刻から、誰かが歩いた跡だ。


「帰着済みなら、なぜ廊下に靴跡が残っていますか」


 リディアが問うと、門衛の一人が顔を上げた。


「……その時刻、旧翻訳局の者はまとめて外へ出されたと聞いています」


「見ましたか」


「いえ。門の記録は上から届きました。私は、印を写しただけです」


「では、門は見ていない。記録だけが帰したのですね」


 門衛の喉が鳴った。


 王宮では、印を写す者も傷ついている。

 見ていないものを見たことにし、帰っていない人を帰したことにする。そうしなければ、明日の交代札が出ないからだ。


 リディアは門衛を責めなかった。

 責めても、帰れない人は帰れない。


「ここに、仮の帰着札台帳を置きます」


 彼女は廊下の端にある細い机を引き寄せた。

 旧翻訳局で、いつも余った紙束を置いていた机だ。誰の机でもないから、誰のためにも使える。


 上に青い札を五枚並べる。


 未帰着。

 門前到達。

 宿舎未確認。

 本人確認待ち。

 明朝再確認。


「赤い印は消しません。消せば、誰がこの言葉で人を閉じたのか分からなくなる。けれど、赤い印だけでは閉じさせません。ここから先は、生活側の到達条件で数え直します」


「そんな台帳に、効力があるのですか」


「効力を作ります」


 リディアは、青い保留印を未帰着札の端に押した。


「薬札も、水番札も、賃金札も、本人が帰ったことを前提に動きます。ならば本人の帰着を確認する台帳は、生活契約の入口です」


 そのとき、廊下の奥で小さな音がした。


 こつ、と木箱が床に当たる音。


 ミナが息をのみ、門衛が灯りを掲げる。


 階段脇の帳簿棚の陰に、黒い外套を抱えた少年が座り込んでいた。

 旧翻訳局の下級写字係だ。頬に乾いたインクがつき、片方の靴紐が切れている。


「……帰着済みに、なっているなら」


 少年は灯りを避けるように目を伏せた。


「もう、出て行ったことにしてくれませんか。僕が残っていたと分かると、門衛さんも、先輩も、罰を受けます」


「名前を」


 リディアは机の前に膝をついた。


「ここでは、役職ではなく名前を書きます」


 少年は唇を噛んだ。


「……ユアン・リットです。下級写字係、第三棚写し番」


 リディアは未帰着札の一行目に、その名を書いた。


 ユアン・リット。

 門前未到達。

 宿舎未確認。

 本人確認済。

 賃金差止め不可。

 証言資格、保持。


「証言資格……?」


「帰ったことにされると、あなたは今夜ここで見たものを、王宮内証人として話せなくなります」


 ユアンの顔色が変わった。


 ミナが白札を握りしめた。


「見たんですね」


 リディアは静かに言った。


 ユアンは、黒い外套の中から小さな荷札を出した。

 紙の端が濡れ、文字がにじんでいる。


「深夜二刻三十六分に、代理鍵保管箱を戻せと言われました。でも、箱は空でした。中身は、その一分後に、別の人が持って行ったんです」


「一分後」


 リディアは帰着簿を見た。


 深夜二刻三十六分。

 赤い帰着済みの列。


 その下に、薄い擦り消し跡がある。


 二刻三十七分。


 たった一分だけ、王宮は何かを帰していない。

 たった一分だけ、誰かを帰ったことにできなかった。


 リディアは青い札をもう一枚置いた。


 二刻三十七分訂正線。

 荷札未到達。

 運搬人本人確認待ち。


「この帰着簿は閉じません」


 リディアの声に、契約核の低い音が重なった。


「人が帰っていないのに、言葉だけ帰らせることは、契約ではありません」


 廊下の灯りが、一つだけ強くなった。


 それは勝利というには小さい。

 けれどユアンは、初めて外套から手を出し、自分の名前の横に震える字で丸をつけた。


 帰着済みではない。

 未帰着として、ここにいる。


 その小さな未完了が、王宮の赤い印よりも強く、夜の廊下に残った。


 そして二刻三十七分の訂正線の先には、誰かが持ち去った空の箱と、まだ帰っていない運搬人の名がある。

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