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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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第七棚の返却済み札

王国契約核地下写字室の第七棚には、白い札が一枚、まっすぐ差し込まれていた。


 返却済み。


 古代語の下に、いまの王宮事務語でそう訳されている。

 綺麗な言葉だった。

 棚にあるべき鍵束は戻り、校閲ログも革紐で閉じられ、貸出票の端には赤い返却印が押されている。


「では、ここは閉じられますね」


 王太子府管理室から来た若い書記官が、安堵したように息をついた。

 彼の顔色は悪い。契約核の明滅が一晩中続き、誰も眠れていないのだろう。


「第三署名欠番は未完了ですが、第七棚は返却済みです。返却済みの棚を開いたままにすると、ほかの復旧手順に遅れが出ます」


 言っていることだけを聞けば、合理的だった。


 鍵が戻った。

 帳面が戻った。

 札も戻った。


 ならば閉じる。


 王宮の手順は、いつもそうやって整って見える。


 けれどリディアは、第七棚の前から動かなかった。

 棚板の下に残る細い擦れ跡を見ていた。


 誰かが重いものを戻した跡ではない。

 人が、急いで膝をついた跡だ。


 乾ききっていない赤インクの粒が、棚の下端だけに飛んでいる。

 返却印を押した手が震えたのか、それとも、押した後すぐに引きずられたのか。


「リディアさん?」


 ミナが小さく呼んだ。

 彼女は候補者用の白札を胸の前で抱え、青い保留印のついた指先をぎゅっと握っている。


「この棚、返却済みではありません」


 リディアが言うと、書記官の眉が跳ねた。


「しかし、札には」

「札には、物品返却済みとしか書かれていません」


 リディアは白札を抜き、裏面の古代語注釈を指でなぞった。


 返す。

 その語には、三つの目的語がついている。


 鍵を保管箱へ。

 校閲ログを棚へ。

 貸出担当者を帰着先へ。


 最後の一行だけが、いまの王宮事務語では消えていた。


「返却とは、棚が満ちることではありません。貸し出された人と物が、それぞれ戻るべき場所へ戻ることです」

「人……?」

「この第七棚の貸出担当者は誰ですか」


 書記官は貸出票をめくった。

 そこには鍵番号と校閲ログ番号だけがある。担当者欄は、薄い灰色の横線で埋められていた。


「緊急復旧時は、担当者名を省略できます。代理鍵保管箱の返却印で代用可能です」

「代用できるのは、鍵の所在だけです」


 リディアは声を荒げなかった。

 荒げると、王宮はすぐに感情の問題にしてしまう。


 だから、一つずつ生活へ戻す。


「鍵が戻っても、その人の外套が掛け釘へ戻ったとは限りません。校閲ログが閉じても、その人が夜番へ引き継げたとは限りません。返却印が押されても、その人が今夜、眠れる場所へ帰れたとは限りません」


 ミナが息をのんだ。


 写字室の隅に、小さな湯呑みが置かれていた。

 飲みかけの茶は冷め、表面に薄い膜を張っている。

 その横には、旧翻訳局で使われていた細い黒紐の栞が一本、落ちていた。


「この湯呑み、誰のですか」


 誰も答えなかった。


 王宮では、鍵の番号はすぐ出る。

 箱の位置も、帳面の番号も、返却印の時刻もすぐ出る。


 けれど湯呑みの持ち主の名前は、誰もすぐに言えなかった。


 リディアは第七棚の札を閉じず、青い保留印をその上に重ねた。


 物品返却済み。

 人員帰着未確認。

 貸出担当者名、本人または生活側証人による確認まで閉鎖不可。


 古代語の脇に、いま誰でも読める言葉でそう書く。


 契約核の奥で、ぎしり、と何かが噛み合う音がした。

 完全に安定したわけではない。

 けれど、明滅は少しだけ遅くなった。


「閉じるな、ということですか」


 書記官の声には苛立ちよりも、疲れた怯えが混じっていた。


「閉じるための条件を戻す、ということです」


 リディアは貸出票を机へ置いた。


「第七棚の鍵。校閲ログ。貸出担当者。この三つが別々に戻って、初めて返却済みです。人を鍵の付属品にしないでください」


 ミナが、震える手で湯呑みの横に白札を置いた。


「……持ち主が戻るまで、ここに置いていいですか」

「ええ。洗って片づけるのは、その人が帰ってからでいい」


 小さな報酬だった。


 誰かの茶が、証拠として残った。

 誰かの外套が、まだ戻っていないこととして数えられた。

 誰かの帰る場所が、返却済みという綺麗な言葉で消されずに済んだ。


 リディアは、王太子府管理室から持ち込まれた代理鍵保管箱の写しを開いた。


 赤い返却印。

 第七棚、深夜二刻三十六分。


 同じ時刻の欄を、もう一枚の写しが示していた。


 王太子府管理室、代理鍵保管箱。

 深夜二刻三十六分。


 そして旧翻訳局帰着簿の同じ時刻には、名前のない空白が一つ残っている。


 鍵は戻った。

 札も戻った。


 では、その時刻に戻ったことにされた人は、誰なのか。


 リディアは第七棚の前で、青い保留印を乾かした。

 乾くまで、この返却済みは閉じさせない。

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