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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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候補者同意欄保管棚

床に落ちた二枚の同意欄写しは、どちらも白かった。


 白い、というだけなら紙の色だ。

 けれどリディアには、その白さが空白欄として読めた。


 ――本人署名、未記入。

 ――候補者同意、管理室にて保管中。

 ――保管中欄は、管理室長権限により補完可。


 最後の一行だけが、薄い金色で浮いている。


 ミナが黒パンを持ったまま息を止めた。まだ一口も食べていない。朝食札はほどけたのに、この部屋の奥から出てきた文字が、また彼女の喉を止めていた。


「補完可、とは何ですか」


 薬師が低く尋ねる。


 王太子府の補佐官は、落ちた写しを拾おうとした。

 リディアはそれより先に、青い保留印の札を二枚の写しの上へ置いた。


「触れないでください。この空白は、まだ誰の同意にもなっていません」


「保管棚から出た以上、管理室の処理対象です」


「処理対象ではありません」


 リディアは一枚目を指差した。

 リディア・セレン。旧婚約紋。本人署名欄、空白。


 次に二枚目。

 聖女エルミア。候補者印。本人署名欄、空白。


「これは、手続きを進めるために埋める空欄ではありません。本人がまだ奪われていない証拠です」


 補佐官の眉が動いた。


「言葉遊びをしている場合ではありません。婚約契約中枢が止まっている。候補者同意欄を保管したままでは、王宮の薬札も水札も賃金札も完全復旧しない」


「だからといって、署名していない人を鍵にしてはいけません」


「鍵ではない。候補者です」


「同じ意味にしているのが、この棚です」


 リディアは三枚目の白札を出した。

 さきほどミナの朝食札を守るために使ったものと同じ、町側証人印を受けるための札だ。


 彼女は机の上に三列を書いた。


 第一列、本人。

 第二列、同意欄。

 第三列、その同意で動かされる生活手順。


「本人が署名していない同意欄では、薬を止められない。水を止められない。賃金を後回しにできない。候補者を代行鍵にできない」


 ミナの指が震えた。


「わ、私も……補完されるんですか」


 小さな声だった。

 けれど、その問いで部屋の空気が変わった。


 朝食札を返されていた見習いは、ただ守られる少女ではなかった。自分の名前が空白を埋める材料にされるかもしれないと、今、自分で読んだのだ。


「ミナさん」


 リディアは振り返った。


「あなたは、まだ署名しません、と言えます」


「……言って、いいんですか」


「言わなければならないときがあります。読めないまま書く署名は、あなたの責任ではなく、誰かの鍵になります」


 ミナは黒パンを机に置き、両手で白札を受け取った。


 ミナ・ローレ。

 後任候補。本人確認待ち。

 婚約契約中枢、代行補完不可。

 朝食一枚、半日賃金、写字机使用は本人生活手順として継続。

 本人は、未読の候補者同意欄へ署名しない。


 最後の一行を、ミナは自分で書いた。


 文字は少し曲がっていた。

 それでも、補佐官の整った管理室文字よりずっと強かった。


 パン籠の少年が、ほっとしたように息を吐く。井戸番が頷き、薬師が証人印を押した。パン屋見習いも、粉のついた指を拭いてから印を重ねる。


 白札の端に青い線が走った。


 ――本人署名空白欄、保全。

 ――生活札、暫定継続。


 その瞬間、エルミアの写しに浮いていた金色の「補完可」が薄くなった。


 リディアの胸の奥で、冷たいものがほどける。

 聖女エルミアが味方かどうかは、まだ分からない。

 何を望み、誰に従い、どこまで知っていたのかも、まだ分からない。


 けれど、本人署名欄が空白である限り、彼女もまだ同意済みにされていない。


「エルミア様の欄も保全します」


「敵対候補まで守るのですか」


 補佐官が吐き捨てる。


「敵か味方かを決める前に、本人同意欄を守ります」


 リディアはエルミアの写しにも青い保留印を押した。


 ――聖女エルミア。本人署名欄、未記入。

 ――候補者同意として使用不可。

 ――薬・水・賃金・食事の停止理由に転用不可。


 金色の補完文字が、さらに薄れた。


 だが、完全には消えなかった。


 保管棚の奥で、別の金具が鳴る。

 今度は扉ではない。棚の最上段、管理室長印を入れる小箱だった。


 箱の蓋に、古代語が浮かぶ。


 ――一定時刻までに候補者同意欄が空白の場合、管理室長は補完命令を発することができる。


 補佐官の顔に、戻りかけた血の色が差した。


「管理室長が戻れば、正式に進められます」


「いいえ」


 リディアは、ミナの白札と二枚の同意欄写しを重ねなかった。

 重ねてはいけないものだった。


「次に読むのは、誰がその補完命令を出せると書いたのかです」


 朝食の黒パンは、ようやくミナの手に戻った。

 彼女は小さくかじり、泣きそうな顔で飲み込む。


 人を鍵にしないための勝利は、契約を動かすことではなかった。

 まだ書かない、と本人が言える空白を、閉じずに残すことだった。


 リディアは青い保留印を、管理室長印の小箱にも押した。


 小箱の奥で、古い翻訳局印の形をした影が、一瞬だけ光った。

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