王太子府婚約契約管理室
王太子府婚約契約管理室の受付で、若い写字見習いが朝食札を返されていた。
札の端には、灰色の細い文字が浮いている。
――後任確認未了につき、研修奉仕扱い。
――食費支給、婚約契約中枢解除後に精算。
少女はパン籠の前で、指先だけを握りしめていた。
年はリディアより少し下だろう。翻訳局の控え室で、原本索引を写す手伝いをしていた見習いだと、窓口書記が小声で教えた。
「昨日から、正式な後任候補としてこちらへ呼ばれています。けれど、後任名はまだ空白のままで」
「空白のまま、仕事だけ先に始めさせているのですね」
リディアは差し戻された朝食札を受け取った。
自分の辞表は受理された。
だがこの部屋は、彼女の仕事だけを鍵として残し、その鍵を引き継ぐはずの人間には、パン一つの責任も渡していなかった。
「名前は」
リディアが尋ねると、少女は肩を震わせた。
「ミナです。ミナ・ローレ。まだ、翻訳官ではありません」
「はい。まだ翻訳官ではありません」
リディアは、その言葉を繰り返した。
繰り返さなければならない言葉だった。
管理室の奥から、王太子府の補佐官が歩いてくる。昨日、旧印の責任移譲欄を空白のまま「正式です」と言い張った若い男だ。
「リディア殿。管理室の処理を妨げないでいただきたい。後任候補の研修費は、あなたの旧職能権限の解除後に一括精算されます」
「私の旧職能権限で、ミナさんの朝食を止めているのですか」
「止めているのではありません。精算前です」
その言い換えに、ミナの腹が小さく鳴った。
パン籠の番をしていた下働きの少年が、気まずそうに目を伏せる。籠にはまだ、薄い黒パンが三つ残っていた。豪華な朝食ではない。だが、写字机に向かう者の午前を支えるには十分な一枚だった。
「管理室台帳を見せてください」
「機密です」
「では、生活札に影響する欄だけで構いません」
リディアは、朝食札、半日賃金札、後任候補名簿を机の上に並べた。
それぞれに同じ印がある。
――婚約契約管理室承認済み。
だが、承認済みの下にあるはずの三つの欄が、どれも空いていた。
誰が読んだか。
誰が責任を引き継いだか。
その承認で、誰の生活手順を動かすのか。
「承認済み、という言葉だけでは、朝食は出せません」
リディアは紙を三列に分けた。
第一列、旧職能権限。
第二列、後任確認欄。
第三列、生活責任者。
「翻訳職能を残すなら、何を残したのかを分けます。原文を読む責任。翻訳結果を確認する責任。その翻訳で薬、水、食事、賃金を動かす責任」
彼女はミナの朝食札を指で押さえた。
「この札を止めた責任は、どの欄にありますか」
補佐官は眉をひそめた。
「研修中の者に、正式な生活責任欄は不要です。後任候補は管理室の指示で動く」
「候補者は、鍵ではありません」
リディアの声は大きくなかった。
けれど、パン籠の前にいた下働きの少年が顔を上げた。
「候補者は、朝に食べ、机に座り、写した文字の責任を自分の名前で覚える人です。食費を私の旧職能解除後に回すなら、あなた方はミナさんの空腹まで、私の辞表にぶら下げていることになる」
「大げさな」
「大げさではありません」
リディアは半日賃金札を開いた。
――研修奉仕。支給保留。
その下、古い儀礼語が薄く光る。
――旧翻訳職能残置に伴う代行準備者。本人責任欄、後日補完可。
ミナの顔から血の気が引いた。
「代行準備者……?」
「あなたを後任にする手続きではありません」
リディアは、指先が冷えるのを感じながら言った。
「私の空白を、後で埋めるための人にしている」
補佐官が一歩踏み出す。
「古い表現です。実務上の意味は――」
「実務上の意味を、今から書きます」
リディアは新しい白札を取り出した。
ミナ・ローレ。翻訳局見習い。婚約契約中枢の代行鍵ではない。
朝食一枚、半日賃金、写字机使用を、本人生活手順として仮確認。
旧職能権限残置および婚約契約管理室承認済み印による停止を禁ずる。
書き終えると、彼女は薬師、井戸番、パン屋見習いの証人印を横に並べた。
昨日まで守った生活札が、ミナの白札へ細い青線でつながる。
「町側証人印を、管理室承認の対抗記録にします」
「王太子府の承認に、町の証人印で対抗するつもりですか」
「責任者のない承認で、薬も水も雇用も食事も止めさせません」
その一文をリディアが口にした瞬間、朝食札の灰色文字がほどけた。
パン籠の番をしていた少年が、黒パンを一枚、ミナへ差し出す。
「どうぞ。午前の分です」
ミナは両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
「食べてから、写してください」
リディアが言うと、ミナは少しだけ泣きそうな顔で頷いた。
大きな勝利ではない。
王太子府婚約契約管理室は、まだ閉じていない。
旧職能権限も、まだ解除されていない。
それでも、後任候補と呼ばれた少女は、代行鍵ではなく、自分の名前で朝食を受け取った。
リディアは管理室台帳の端に、青い保留印を押した。
――責任者空白の承認では、生活札を閉じられない。
その規則が、部屋の奥の扉へ届いた。
扉の向こうで、古い契約棚がひとつ鳴る。
補佐官の顔色が変わった。
「そこは、婚約契約候補者同意欄の保管棚です。管理室長の許可なしに――」
言い終える前に、棚の金具がひとりでに開いた。
中から、二枚の同意欄写しが滑り落ちる。
一枚目には、リディアの旧婚約紋。
本人署名欄、空白。
二枚目には、聖女エルミアの名。
本人署名欄、空白。
そして二枚の欄外に、同じ管理室印が押されていた。
――候補者同意、管理室にて保管中。
リディアは、ミナの朝食札から手を離さなかった。
守る空白は、ひとつではなかった。




