盗まれた翻訳権限
朝薬の札は、日の出と同時にもう一度灰色になった。
昨夜、一瓶だけ守ったはずの薬瓶。その隣に置かれた朝の分へ、薄い金文字が伸びている。
――翻訳局確認あり。
――神殿地下儀礼、第一工程完了に伴い、関連服薬を儀礼準備へ再照合。
「またですか」
薬師の声は怒鳴り声ではなかった。
怒鳴るより先に、眠っていない目が瓶の数を数えている。夜を越した子どもに、朝の熱冷ましを飲ませる。その一手順だけが、旧い印の名で引き戻されていた。
二枚目は井戸番表だった。
朝番の欄に書かれた女の名の横へ、細い灰色線が差し込む。
――地下清め水補充優先。
――翻訳局確認済み契約原本に基づく関連生活札再配分。
「朝の水まで、神殿へ持っていくつもりかい」
井戸番の女は、空の桶を足元に置いた。
薬房二桶、パン屋一桶、老人世帯一桶。昨夜リディアが守った順番は、朝になる前に、また別の名で奪われかけている。
三枚目はパン屋の見習い雇用欄だった。
少年の名の隣に、昨夜消したはずの語が戻っていた。
――儀礼奉仕者給付、継続照合中。
「僕、今日も粉袋を運ぶ約束です」
少年は賃金袋を握りしめた。
「神殿へ行く約束は、していません」
「はい」
リディアは三枚の札を、昨夜封緘した搬入通知の隣へ置いた。
夜薬。
朝水。
雇用欄。
その全てに、同じ言葉がかかっている。
翻訳局確認あり。
神殿書記は、青ざめたまま巻物を抱えていた。
「昨夜申し上げた通りです。神殿が、その旧印を押したわけではありません」
「分かっています」
リディアは、旧い王宮翻訳局印の印影を消さなかった。
濡らさず、削らず、上から無効印も押さない。白い封緘紐の下で、旧印はまだ鈍く光っている。
「これは、偽造印かどうかだけを調べるものではありません」
彼女は新しい紙を三つに折った。
一列目に、印影台帳。
二列目に、翻訳確認欄。
三列目に、責任移譲欄。
「印が本物でも偽物でも、ここに書かれた『翻訳局確認あり』が何を確認したのかが問題です」
「婚約契約原本を、確認したのでしょう」
王太子府から来た若い補佐官が、苛立った声で言った。
「翻訳局の印があるなら、専門家が読んだということです。ならば神殿は工程を進められる」
「専門家が、どの欄を読んだのですか」
リディアは、朝薬の札を指で押さえた。
「夜薬を、候補者清め薬にできる欄ですか」
次に、井戸番表。
「朝水を、地下清め水にできる欄ですか」
最後に、見習い雇用欄。
「パン屋見習いを、儀礼奉仕者にできる欄ですか」
補佐官は口を開いたが、答えられなかった。
「翻訳確認とは、文字を読んだという飾りではありません。誰の言葉を、誰の責任で、どの生活手順へつなぐかを確認する仕事です」
リディアは印影台帳を開いた。
王宮翻訳局旧印。
使用条件、契約原文の意味確認。
使用者、翻訳局在籍者。
辞表受理後の扱い――。
そこで文字が薄くなっていた。
王国語では、失効済み、とある。
しかしその下、契約魔法の古い儀礼語で、細い追記が入っている。
――後任確認完了まで、旧職能権限を保留。
薬師が息を呑んだ。
「保留、ということは」
「私本人は辞表を受理されています」
リディアは静かに言った。
「けれど、翻訳局印の職能だけが、後任確認まで残っている扱いにされている。本人は辞めた。責任だけは、鍵として残した。そう読めます」
「そんなもの、あなたが押したわけではないでしょう」
井戸番の女が思わず言った。
「だからこそ、消せません」
リディアは封緘紐を、旧印の周囲から三枚の生活札へ通した。
「誰かが、私の名前ではなく、翻訳官という職能を使いました。本人同意欄を読まないまま、翻訳確認済みとして原本を動かした。これは印の盗難だけではありません。翻訳責任の盗用です」
補佐官の顔色が変わる。
「言い過ぎです。王太子府は、正式な工程を――」
「正式なら、責任移譲欄に名前があります」
リディアは三列目を示した。
後任翻訳官名、空白。
旧上司承認名、空白。
王太子府責任者名、空白。
神殿受領責任者名、受領のみ。
「誰も『読んだ』ことになっていません。けれど、印だけが生活手順を動かしている」
彼女は薬師、井戸番、パン屋、窓口書記の昨夜の証人印を机へ並べた。
「この三手順については、町側証人印を暫定対抗記録にします」
「対抗記録?」
少年が顔を上げる。
「旧印が『翻訳局確認あり』と主張しても、薬師が見た朝薬、井戸番が配る朝水、店主が約束した雇用欄は、本人生活手順確認済みとして再吸収を止めます」
リディアは一枚目の白札へ書いた。
朝薬、薬師判断継続。神殿儀礼名への再照合禁止。
薬瓶の灰色文字がほどけた。
瓶の底に、小さな白い印が残る。
「飲ませられます」
薬師が瓶を胸に抱えた。
二枚目。
朝水、生活水優先。薬房、パン屋、老人世帯、朝番確認済み。
井戸番表の女の名が、灰色線から青い線へ戻る。
「私の番で、配れるね」
「はい」
三枚目。
パン屋見習い、雇用継続。儀礼奉仕者給付との混同禁止。
少年の名の横に、粉袋の小さな印が灯った。
「今日も、店の仕事です」
「よかった」
少年は、ほんの少しだけ笑った。
大きな解決ではない。
旧印を押した者はまだ分からない。
神殿地下儀礼の第一工程も止まっていない。
聖女エルミア本人の同意欄は、まだ読めない。
それでも、朝薬は飲める。
朝水は回る。
見習いは、神殿ではなくパン屋の仕事へ戻れる。
リディアは最後に、旧印そのものへ赤い細糸をかけた。
「王宮翻訳局旧印、使用責任追跡のため凍結。以後、この印だけでは生活札を停止できません」
旧印が一度だけ強く光った。
抵抗するような光ではない。
どこか別の台帳を参照する光だった。
机の端に置いていた退職処理台帳が、ひとりでに開く。
辞表受理欄。
職能失効欄。
後任確認欄。
その余白に、リディアの知らない古い儀礼語が浮かび上がった。
――婚約契約中枢解除まで、翻訳職能権限を残置。
――残置承認、王太子府婚約契約管理室。
リディアは、指先を止めた。
辞表は、受理されていた。
だが王国は、彼女が辞めた後も。
彼女の仕事だけを、まだ辞めさせていなかった。




