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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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管理室長の補完命令

管理室長印の小箱は、正午を告げる鐘より先に開いた。


 銀の蓋がひとりでに跳ね上がり、中から細い命令書がせり出す。紙は白いのに、縁だけが金色に焼けていた。


 ――候補者同意欄、一定時刻まで空白。

 ――王国契約魔法復旧のため、管理室長権限により補完命令を発する。


「ようやくです」


 奥の扉から出てきた男は、怒鳴らなかった。

 灰色の礼服を正しく着て、指先にインクの染みひとつない。王太子府婚約契約管理室長、ロゼル・ハーグ。彼は乱れた部屋よりも先に、ミナが持つ黒パンを見た。


「候補者を空腹にしておく趣味はありません。補完が済めば、食事も賃金も正式に戻ります」


 ミナの指が、黒パンを握りしめた。

 さっきまで写字見習いの午前食だったものの端に、灰色の文字が走る。


 ――候補者儀礼食へ振替予定。


 半日賃金袋の紐も、同じ色で細く締まった。


 ――候補者準備費へ一括精算予定。


「見てください」


 リディアは命令書を奪わなかった。

 代わりに、黒パン、半日賃金袋、ミナの白札、町側証人印を命令書の横へ置いた。


「補完命令は、空白欄だけを埋めるものではありません。食事の名前を変え、賃金の目的語を変え、本人が読んで署名する権利を閉じ、証人が異議を書く場所を消します」


 管理室長の眉が、ほんの少しだけ動いた。


「大げさな翻訳です。これは復旧命令です」


「では、復旧で何を動かすのかを書いてください」


 リディアは新しい紙を四つに区切った。


 一、誰の欄を補完するのか。

 二、誰が本人の代わりに読んだ扱いになるのか。

 三、その補完で、どの生活札が動くのか。

 四、異議・証人・未読申立てをどこへ残せるのか。


「この四手順のどれかが空白なら、それは同意の補完ではありません。管理室長が、本人の代わりに生活を動かす責任命令です」


 ロゼルは薄く笑った。


「責任なら、管理室が負います」


「食事の責任もですか」


 リディアは黒パンを指した。


「ミナさんの午前を支える写字見習いの食事を、候補者儀礼食へ振り替える責任を、あなたの名前で書けますか」


 金色の命令書が揺れた。


「賃金の責任もですか」


 半日賃金袋の紐が鳴る。


「働いた本人が今日帰るための小銭を、候補者準備費へ吸い上げる責任を、あなたの名前で書けますか」


 管理室長の笑みが消える前に、ミナが息を吸った。


「わたし」


 声は小さかった。

 けれど、彼女は黒パンを机に置かず、自分の白札を両手で持った。


「わたしの半日賃金を、候補者準備費にしないでください。わたしは、まだその同意欄を読んでいません。読んでいないもののために、今日働いた分を渡したくありません」


 曲がった字で、ミナは一行を書き足した。


 ――本人未読。半日賃金、候補者準備費へ振替不可。


 その瞬間、賃金袋の紐から灰色がほどけた。

 小さな硬貨の音が、袋の底で鳴る。


 井戸番が、町側証人印を前に出した。


「私たちの印も、参考記録に落とされるのかい」


「補完後は、整理されます」


 ロゼルが答える。


「いいえ」


 リディアは証人印の横に、青い保留線を引いた。


「生活札に影響した命令は、生活側証人の異議欄なしに閉じられません。薬を止められた薬師、水を止められた井戸番、雇用を止められたパン屋見習い。彼らは余白ではなく、影響を受けた手順の証人です」


 薬師が黙って印を押した。

 井戸番が続き、パン屋見習いが粉のついた指で押す。


 命令書の金縁に、青い欄が割り込んだ。


 ――生活影響明細。

 ――本人未読保全欄。

 ――町側証人異議欄。


 ロゼルの指が、小箱へ伸びる。


「管理室長権限で、欄外を補完します」


「欄外ではありません」


 リディアは、エルミアの写しを命令書の下へ滑り込ませた。


 聖女エルミア。本人署名欄、未記入。


「敵か味方かは、まだ読みません。けれど、本人が読んでいない欄を、候補者鍵へ転用する命令なら、生活影響明細に書いてください。薬、水、賃金、食事を止める鍵として使う、と」


 金色の文字が、そこで止まった。


 命令書は発令されなかった。

 無効になったのでもない。

 もっと弱い、けれど読める形へ引きずり下ろされた。


 ――生活影響明細未添付のため、補完命令は未発令扱い。


 ミナは黒パンをもう一口かじった。

 半日賃金袋を、胸に抱える。


 リディアは青い保留印を、命令書の中央ではなく、生活影響明細の欄に押した。


「補完するなら、誰の生活を何に変えるのかを書いてからです」


 管理室長の唇が、初めて歪んだ。


「あなたは、まだ翻訳局の仕事をしているつもりですか」


「いいえ」


 リディアは、管理室長印の小箱の底を見た。


 そこに、うっすらと古い印影が残っている。


 ――補完命令古代語訳注、旧翻訳局校閲済み。

 ――校閲保管先、王宮翻訳局旧保管庫。


 辞表は受理されていた。

 それでも、彼女の知らないところで、彼女のいた局の言葉がまだ誰かの生活を消せる形に整えられている。


「次に読むのは、管理室長の命令ではありません」


 リディアは、旧印の影へ青い糸をかけた。


「この命令を、誰が“読める形”に訳したのかです」

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