聖女エルミアの閲覧署名
朝の井戸端は、夜よりも騒がしかった。
薬師の棚には、二回目の薬瓶が並んでいる。
井戸番の板には、昼番へ渡す青札が掛かっている。
パン屋の窓口には、見習いの少年が半日分の賃金受取票を握っている。
どれも昨夜、リディアが本人同意欄保全暫定規則で一晩だけ守ったものだ。
けれど、日が高くなるにつれて、三枚の札の端に同じ灰色の文字が浮かび始めた。
――昼刻、暫定確認期限満了。
――聖女エルミア閲覧署名確認中。
――候補紋照合が完了するまで、生活手続きは神殿照合へ移管。
「神殿照合へ移管、ですか」
リディアは、その一文をゆっくり読み上げた。
薬師が、瓶の栓を押さえる。
「移管されたら、薬は出せません。神殿の返答を待つ間に、熱が上がる」
井戸番の老人は、孫の青札を裏返した。
「昼番の名が消えかけておる。せっかく朝の一桶は渡せたのに」
パン屋の娘は、見習いの少年の肩に手を置いた。
「半日分でいいんです。今日働いたぶんだけ、先に払わせてください」
王太子府の契約技官は、その三つを見ても表情を変えなかった。
彼は婚約契約原本保管室の索引写しを掲げる。
「閲覧署名があります。聖女エルミア様の名で原本は確認済みです。候補紋照合を進めれば、生活手続きもまとめて復旧する」
「まとめて、ですか」
「はい。本人同意欄の不備は、聖女候補紋の承認で補える。そうすれば薬も水も賃金も止まらない。旧筆頭翻訳官殿も、いい加減ご自分の旧婚約紋を切りたいでしょう」
リディアの左手の甲が、熱を持った。
切りたい。
その言葉だけなら、間違っていない。
婚約解消届を出したあとも残る紋の残滓。
空白欄補完者として呼び戻そうとする鎖。
それを断てるなら、どれほど楽だろう。
けれど、リディアは筆を取らなかった。
「私の婚約紋を切るために、聖女の同意欄を埋めるわけにはいきません」
井戸端の空気が止まった。
パン屋の娘が、小さく息を呑む。
「でも、聖女様は……リディア様の場所を奪った方ではないのですか」
「それは、まだ読めていません」
リディアは索引写しを机に置いた。
その隣に、三枚の薄い記録紙を並べる。
一枚目。
婚約契約原本貸出記録。
閲覧者欄には、確かに聖女エルミアの名がある。
二枚目。
代理閲覧記録。
同席者、代読者、搬出経路の欄がある。
けれど、そのうち二つは黒い封緘で塗りつぶされていた。
三枚目。
本人同意欄写し。
そこには、欄そのものが存在しない。
「署名した者、原本を読んだ者、代理で閲覧した者、鍵として使われた者。この四つは、同じ人とは限りません」
契約技官が眉をひそめる。
「名があるなら充分です」
「充分ではありません」
リディアは、薬瓶の灰色文字を指で示した。
「名前だけで充分なら、この薬瓶も、井戸番も、見習いの賃金も、すべて誰かの都合で神殿へ移管できます。本人が読んだのか。読まされたのか。名前を借りられたのか。それを分けなければ、署名は同意になりません」
「聖女様を庇うのですか」
「いいえ」
リディアは首を振った。
「私は、聖女エルミアを無罪だと言っているのではありません。本人同意欄のない署名を、王太子府の都合で完成扱いさせないだけです」
契約技官の手が、索引写しの端を掴んだ。
「ですが、復旧が遅れる」
「復旧とは、人の名前を鍵にして急ぐことではありません」
リディアは、新しい白札を三枚取り出した。
一枚目を薬師へ渡す。
「薬は、薬師、家族、監査官の三者確認で昼まで通します。中枢接続はしません」
薬師が、震える手で札を受け取った。
瓶の灰色文字が消え、白い線が灯る。
――二回目薬。昼刻まで有効。三者確認。神殿照合待ちのため中枢接続なし。
「飲めます」
薬師の声が掠れた。
「今すぐ、飲ませられます」
二枚目を、井戸番の老人へ。
「井戸番は、前任者、交代者、水番台帳の三点照合で昼番を動かします。青札の名前は消しません」
老人の孫が、自分の名を探す。
青札の端に、細い水色の線が戻った。
――昼番仮交代。本人同意欄作成待ち。井戸一桶、老人世帯・薬房優先。
「じいちゃん、俺の名、残った」
「ああ」
老人が目元を押さえた。
三枚目を、パン屋の娘へ。
「見習い賃金は、作業実績、店主確認、監査仮払い印で半日分だけ先に出します。正式採用署名は、読んでからでいい」
少年の受取票に、粉粥の椀と銅貨半枚の印が灯る。
――半日賃金仮払い。昼食券一枚。正式署名保全中。
「……今日、働いたぶんですか」
「そうです」
リディアは頷いた。
「誰かの鍵になった報酬ではなく、あなたが働いたぶんです」
少年が、受取票を胸に抱いた。
小さな報酬が三つ、机の上で白く光る。
それを見てから、リディアは四枚目の白札を取り出した。
薬でも、水でも、賃金でもない。
聖女エルミア閲覧署名欄の横に貼る札だった。
――本人同意欄未提示。
――署名者・閲覧者・代理閲覧者・鍵利用者の同一性未確認。
――候補紋、中枢鍵としての使用を昼刻まで停止。
契約技官が、声を荒げた。
「聖女様の欄に、そんな札を貼る権限はありません!」
「あります」
リディアは、建国契約第二条の写しを開いた。
「民の生活契約は王冠に優先する。そして、生活契約の本人同意欄を中枢鍵へ転用してはならない。聖女候補紋が薬、水、賃金を止める根拠になるなら、その欄も生活契約の監査対象です」
「聖女様は民ではない」
「人です」
短く言った瞬間、リディアの旧婚約紋が強く熱を持った。
王太子府中枢が反応している。
自分の鎖を切る近道を、彼女が拒んだからだ。
でも、筆は震えなかった。
「名前は鍵ではありません。署名は同意ではありません。閲覧は承認ではありません」
白札が、聖女エルミアの名の横で光った。
灰色だった三つの生活札も、昼までの線を取り戻す。
薬瓶は棚から出せる。
井戸番の青札は動く。
見習いは昼食券を使える。
完璧な復旧ではない。
けれど、人を鍵にしないまま、昼まで生活を続けるための道は開いた。
リディアは、代理閲覧記録に封緘紐をかけた。
「この記録は証拠保全します。黒塗り欄も、剥がしてはなりません。誰が同席し、誰が代読し、誰が搬出したか。順番に読みます」
封緘紐が結ばれた瞬間、記録紙の裏側に新しい文字が浮かんだ。
――婚約契約原本。
――王太子府保管室より移送済み。
――移送先、神殿地下儀礼庫。
井戸端の誰もが黙った。
リディアは、最後の行を読む。
――移送理由。
――聖女エルミア、本人確認前儀礼準備。
本人確認前。
その言葉だけが、朝の光の中で、刃のように冷たかった。




