表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/32

聖女エルミアの閲覧署名

朝の井戸端は、夜よりも騒がしかった。


 薬師の棚には、二回目の薬瓶が並んでいる。

 井戸番の板には、昼番へ渡す青札が掛かっている。

 パン屋の窓口には、見習いの少年が半日分の賃金受取票を握っている。


 どれも昨夜、リディアが本人同意欄保全暫定規則で一晩だけ守ったものだ。


 けれど、日が高くなるにつれて、三枚の札の端に同じ灰色の文字が浮かび始めた。


 ――昼刻、暫定確認期限満了。

 ――聖女エルミア閲覧署名確認中。

 ――候補紋照合が完了するまで、生活手続きは神殿照合へ移管。


「神殿照合へ移管、ですか」


 リディアは、その一文をゆっくり読み上げた。


 薬師が、瓶の栓を押さえる。


「移管されたら、薬は出せません。神殿の返答を待つ間に、熱が上がる」


 井戸番の老人は、孫の青札を裏返した。


「昼番の名が消えかけておる。せっかく朝の一桶は渡せたのに」


 パン屋の娘は、見習いの少年の肩に手を置いた。


「半日分でいいんです。今日働いたぶんだけ、先に払わせてください」


 王太子府の契約技官は、その三つを見ても表情を変えなかった。

 彼は婚約契約原本保管室の索引写しを掲げる。


「閲覧署名があります。聖女エルミア様の名で原本は確認済みです。候補紋照合を進めれば、生活手続きもまとめて復旧する」


「まとめて、ですか」


「はい。本人同意欄の不備は、聖女候補紋の承認で補える。そうすれば薬も水も賃金も止まらない。旧筆頭翻訳官殿も、いい加減ご自分の旧婚約紋を切りたいでしょう」


 リディアの左手の甲が、熱を持った。


 切りたい。

 その言葉だけなら、間違っていない。


 婚約解消届を出したあとも残る紋の残滓。

 空白欄補完者として呼び戻そうとする鎖。

 それを断てるなら、どれほど楽だろう。


 けれど、リディアは筆を取らなかった。


「私の婚約紋を切るために、聖女の同意欄を埋めるわけにはいきません」


 井戸端の空気が止まった。


 パン屋の娘が、小さく息を呑む。


「でも、聖女様は……リディア様の場所を奪った方ではないのですか」


「それは、まだ読めていません」


 リディアは索引写しを机に置いた。

 その隣に、三枚の薄い記録紙を並べる。


 一枚目。

 婚約契約原本貸出記録。

 閲覧者欄には、確かに聖女エルミアの名がある。


 二枚目。

 代理閲覧記録。

 同席者、代読者、搬出経路の欄がある。

 けれど、そのうち二つは黒い封緘で塗りつぶされていた。


 三枚目。

 本人同意欄写し。

 そこには、欄そのものが存在しない。


「署名した者、原本を読んだ者、代理で閲覧した者、鍵として使われた者。この四つは、同じ人とは限りません」


 契約技官が眉をひそめる。


「名があるなら充分です」


「充分ではありません」


 リディアは、薬瓶の灰色文字を指で示した。


「名前だけで充分なら、この薬瓶も、井戸番も、見習いの賃金も、すべて誰かの都合で神殿へ移管できます。本人が読んだのか。読まされたのか。名前を借りられたのか。それを分けなければ、署名は同意になりません」


「聖女様を庇うのですか」


「いいえ」


 リディアは首を振った。


「私は、聖女エルミアを無罪だと言っているのではありません。本人同意欄のない署名を、王太子府の都合で完成扱いさせないだけです」


 契約技官の手が、索引写しの端を掴んだ。


「ですが、復旧が遅れる」


「復旧とは、人の名前を鍵にして急ぐことではありません」


 リディアは、新しい白札を三枚取り出した。


 一枚目を薬師へ渡す。


「薬は、薬師、家族、監査官の三者確認で昼まで通します。中枢接続はしません」


 薬師が、震える手で札を受け取った。

 瓶の灰色文字が消え、白い線が灯る。


 ――二回目薬。昼刻まで有効。三者確認。神殿照合待ちのため中枢接続なし。


「飲めます」


 薬師の声が掠れた。


「今すぐ、飲ませられます」


 二枚目を、井戸番の老人へ。


「井戸番は、前任者、交代者、水番台帳の三点照合で昼番を動かします。青札の名前は消しません」


 老人の孫が、自分の名を探す。

 青札の端に、細い水色の線が戻った。


 ――昼番仮交代。本人同意欄作成待ち。井戸一桶、老人世帯・薬房優先。


「じいちゃん、俺の名、残った」


「ああ」


 老人が目元を押さえた。


 三枚目を、パン屋の娘へ。


「見習い賃金は、作業実績、店主確認、監査仮払い印で半日分だけ先に出します。正式採用署名は、読んでからでいい」


 少年の受取票に、粉粥の椀と銅貨半枚の印が灯る。


 ――半日賃金仮払い。昼食券一枚。正式署名保全中。


「……今日、働いたぶんですか」


「そうです」


 リディアは頷いた。


「誰かの鍵になった報酬ではなく、あなたが働いたぶんです」


 少年が、受取票を胸に抱いた。


 小さな報酬が三つ、机の上で白く光る。


 それを見てから、リディアは四枚目の白札を取り出した。


 薬でも、水でも、賃金でもない。


 聖女エルミア閲覧署名欄の横に貼る札だった。


 ――本人同意欄未提示。

 ――署名者・閲覧者・代理閲覧者・鍵利用者の同一性未確認。

 ――候補紋、中枢鍵としての使用を昼刻まで停止。


 契約技官が、声を荒げた。


「聖女様の欄に、そんな札を貼る権限はありません!」


「あります」


 リディアは、建国契約第二条の写しを開いた。


「民の生活契約は王冠に優先する。そして、生活契約の本人同意欄を中枢鍵へ転用してはならない。聖女候補紋が薬、水、賃金を止める根拠になるなら、その欄も生活契約の監査対象です」


「聖女様は民ではない」


「人です」


 短く言った瞬間、リディアの旧婚約紋が強く熱を持った。


 王太子府中枢が反応している。

 自分の鎖を切る近道を、彼女が拒んだからだ。


 でも、筆は震えなかった。


「名前は鍵ではありません。署名は同意ではありません。閲覧は承認ではありません」


 白札が、聖女エルミアの名の横で光った。


 灰色だった三つの生活札も、昼までの線を取り戻す。

 薬瓶は棚から出せる。

 井戸番の青札は動く。

 見習いは昼食券を使える。


 完璧な復旧ではない。

 けれど、人を鍵にしないまま、昼まで生活を続けるための道は開いた。


 リディアは、代理閲覧記録に封緘紐をかけた。


「この記録は証拠保全します。黒塗り欄も、剥がしてはなりません。誰が同席し、誰が代読し、誰が搬出したか。順番に読みます」


 封緘紐が結ばれた瞬間、記録紙の裏側に新しい文字が浮かんだ。


 ――婚約契約原本。

 ――王太子府保管室より移送済み。

 ――移送先、神殿地下儀礼庫。


 井戸端の誰もが黙った。


 リディアは、最後の行を読む。


 ――移送理由。

 ――聖女エルミア、本人確認前儀礼準備。


 本人確認前。


 その言葉だけが、朝の光の中で、刃のように冷たかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ