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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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婚約契約原本保管室

砂時計が、井戸端の机に置かれた。


 夜明けまで、あと半刻。


 透明な封印紐で囲った三つの空白欄が、淡く白く光っている。


 薬受取代理札。

 井戸番交代札。

 見習い初日札。


 昨夜、リディアはそれらを署名で埋めなかった。

 本人の同意がない欄を、未処理ではなく保護欄として残した。


 けれど、砂が落ちるたび、三枚の札の端に同じ警告が浮かぶ。


 ――夜明け時、暫定確認期限満了。

 ――未完了空白欄、王太子府中枢へ自動回収。


「回収、ですって」


 薬師が、少年の持つ薬瓶を見た。


 その瓶は、母親の二回目の薬だ。

 夜は越せた。

 けれど朝になれば、また札が止まる。


 井戸番の老人は孫の肩を押さえていた。

 昼番だけは交代できたが、朝番の正式な札はまだない。


 パン屋の娘は、見習いの少年に粉粥の椀を持たせたまま、唇を噛んでいる。


「一晩だけでは、生活は続きません」


 リディアは砂時計から目を離さずに言った。


 王太子府の契約技官が、待っていたように筆を差し出す。


「ですから、旧筆頭翻訳官殿が補完者として署名してください。あなたは旧婚約紋保持者です。王太子府中枢が認める空白欄の管理権を持つ」


「管理権ではありません」


 リディアの左手の甲に、切ったはずの婚約紋の残滓が熱を持つ。


「これは、切れていない鎖です」


 技官の表情が、わずかに硬くなった。


 その硬さを、リディアは見逃さない。


「婚約解消届は提出済みです。なのに紋の残滓が中枢に残っている。理由は一つです」


 彼女は、再起動順序表の裏面に浮かぶ赤文字を指でなぞった。


 ――空白欄補完者。

 ――旧筆頭翻訳官。

 ――旧婚約紋保持者。


「解消届だけでは、婚約契約原本の付帯条項が切れていません」


「原本は王太子府の管理です」


「いいえ。王太子府が持っているのは、解消届の写しです」


 リディアは、井戸端の仮台帳の下から、薄い索引紙を引き抜いた。

 建国契約第二条を開示したとき、同じ束に挟まっていた古い目録だ。


「婚約契約は、契約本文、婚約紋登録、同意欄写し、解消届、付帯条項索引に分かれています。紋を切るには、原本の同意欄と付帯条項を照合しなければならない」


 砂が落ちる。


 薬瓶の札が、一瞬灰色に沈んだ。


 少年が息を呑む。


「母さんの薬、また止まるんですか」


「止めません」


 リディアは即答した。


「ただし、私が署名して動かすのではありません。署名しないための規則を、夜明け前に正式化します」


 技官が笑った。


「署名しない規則など、契約ではない」


「契約です。本人を鍵にしないための契約です」


 リディアは索引紙を開く。


 婚約契約原本保管室。

 第二付帯条項。

 旧婚約紋残滓処理。

 候補者照合欄。


 そこまでは、予想していた。


 予想していなかったのは、その下に浮かんだ別の欄だった。


 ――聖女候補紋。

 ――儀礼代替署名欄。

 ――本人同意欄、該当なし。


 井戸端の空気が、ひやりと変わった。


「該当なし……?」


 パン屋の娘がつぶやく。


「聖女様は、リディア様の席を奪った方では」


「席ではありません」


 リディアは、索引の文字を読み直した。


 身分名はある。

 儀礼名もある。

 代替署名欄もある。


 けれど、本人が何に同意するのかを書く欄が、最初から存在しない。


「これは、席ではなく鍵穴です」


 自分の声が、少し低くなるのが分かった。


「聖女候補欄は空白ではありません。空白にする欄そのものを奪われています」


 技官が、初めて言葉を失った。


 井戸番の老人が、孫の札を抱え直す。


「その方も、鍵にされるのか」


「このままなら」


 リディアは頷いた。


「薬の代理受取、井戸番交代、見習い契約。小さな署名欄を中枢鍵へ横滑りさせる仕組みと同じです。候補者、予定者、旧婚約者――人の役割名を、本人の同意なしに鍵へ変える」


「では、どうする」


 老人の孫が聞いた。


 まだ幼い声だった。

 けれど、朝番を引き受けようとしている声だった。


「空白欄保全の暫定規則を作ります」


 リディアは新しい紙を取り出した。


 表題を大きく書く。


 ――本人同意欄保全暫定規則。


 一、本人が読める同意欄なき契約は、中枢鍵として使用してはならない。


 二、空白欄は未処理ではなく、本人未同意の証拠として保全する。


 三、薬、水、食事、賃金など生活維持に必要な手続きは、本人署名の代わりに証人確認で一晩だけ通す。ただし中枢接続を禁ずる。


 四、候補者、予定者、旧婚約者の紋は、本人同意欄の提示前に照合してはならない。


「勝手に条文を――」


「根拠は建国契約第二条と、婚約契約原本索引です」


 リディアは筆を止めない。


「原本が未照合である以上、同意欄を持たない者を鍵として使う処理はすべて一時停止できます」


「復旧が遅れます!」


 技官の声が、井戸端に響いた。


 リディアは、薬瓶を持つ少年を見た。

 井戸番の孫を見た。

 粉粥の椀を抱える見習いを見た。


 それから、索引に浮かぶ聖女候補欄を見た。


「復旧とは、人を鍵にする速度ではありません」


 彼女は、暫定規則の最後に監査印を押した。


「明日の薬と水と食事と賃金を、本人のまま渡すことです」


 白い光が、机の上を走った。


 薬受取代理札に、新しい欄が生まれる。


 ――二回目の薬。一晩延長。三者確認。中枢接続なし。


 少年の薬瓶に、朝の分の文字が灯った。


「母さん、朝も飲めます」


 薬師が、小さく息を吐く。


 井戸番交代札には、青い線が引かれた。


 ――朝番仮交代。昼まで。本人が読める同意欄作成待ち。


 老人の孫が、自分の名前を指でなぞった。


「俺の名前、残ってる」


 見習い初日札には、粉粥の椀と銅貨の印が増えた。


 ――二日目朝食。半日仮払い。正式採用署名保全中。


 見習いの少年が、パン屋の娘を見上げる。


「明日も、来ていいんですか」


「来なさい」


 娘は泣き笑いで答えた。


「署名は、読んでからでいい」


 最後に、索引の聖女候補欄が白く縁取られた。


 ――本人同意欄未提示。

 ――中枢鍵使用、一晩停止。


 そして、リディアの左手の旧婚約紋も、熱を失わないまま、透明な封印に包まれる。


 切れてはいない。

 けれど、今すぐ誰かの空白を埋める鍵にはされない。


 砂時計の最後の一粒が落ちた。


 夜明けの鐘が鳴る。


 暫定規則の掲示板が、井戸端に立ち上がった。

 薬師も、井戸番も、パン屋も、技官でさえ、その文字を読むしかなかった。


 その瞬間、婚約契約原本保管室の索引が、ひとりでに開く。


 リディアは息を止めた。


 原本貸出記録。


 閲覧者の欄に、ありえない名が浮かんでいる。


 ――解消届提出後、婚約契約原本を閲覧した者。


 聖女エルミア。


 けれど、その署名の横にあるはずの本人同意欄は、やはり存在しなかった。

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