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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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王太子妃予定者契約紋照合

夜明けの粉粥は、三十食ぶん、どうにか煮えた。


 ランプは消えなかった。

 薬棚の霜印も、一晩だけ保った。

 井戸番の少年が、朝水札を抱えて、ラウルの家へ一桶を運んでいく。


 それを見届けた瞬間、リディアは、井戸端の机に積まれた灰色の札へ目を落とした。


「次は、札の名前が止まっています」


 薬師が差し出したのは、薬受取代理予定者の札だった。

 熱のある本人が歩けない家では、翌朝から代理人が薬を受け取れるよう、前夜に紋を照合しておく。


 けれど受取人欄は、薄い灰色のまま沈黙していた。


「薬瓶は戻りました。冷気も守れました。でも、受け取りに来る者の名が通らなければ、棚から出せません」


 隣で、井戸番の老人が交代札を差し出す。


「わしの膝では、昼まで水番に立てん。孫へ交代する予定の札も、同じ灰色だ」


 さらに、パン屋の娘の後ろに、見習いの少年が立っていた。

 初日食の札を両手で持っている。


「今日から粉挽き場で働けるはずでした。でも、見習い契約予定者の照合待ちだって……」


 灯火、薬棚、井戸。

 昨夜守った生活は、今度は“それを明日へ渡す人”のところで止まっていた。


 リディアは、再起動順序表の最上段を開く。


 ――王太子妃予定者契約紋照合。

 ――凍結略号S・R・A、照合優先。


 王太子府の契約技官は、表情を崩さずに言った。


「王太子府中枢を安全に再起動するには、妃予定者の契約紋照合が必要です。婚礼契約が安定すれば、民間契約も順次復旧します」


「順序が逆です」


「また逆ですか」


「はい」


 リディアは、薬受取代理札、井戸番交代札、見習い初日札を、順序表の横に並べた。


「古代語の『予定者』は、王太子妃だけを指しません。明日から責任を引き受ける人のことです。薬を受け取る代理人。水番を交代する者。初日から食事と賃金を受ける見習い。すべて予定者です」


「王太子妃予定者は王国中枢に関わる特別な予定者だ」


「特別であっても、生活側の予定者を消してよい格ではありません」


 リディアは、順序表の細い格印を指でなぞる。


「ここで使われている『照合』の目的語は、身分ではありません。責任です。誰が、誰のために、どの生活契約を引き受けるのか。それを結ぶ手続きです」


 契約技官の眉が、わずかに動いた。


「妃予定者の身分確認は、王国の責任確認と同義です」


「違います。妃を確認する手続きと、人を鍵として使う手続きは違います」


 井戸端の空気が、そこで一段冷えた。


 リディアは凍結略号をもう一度見た。


 S・R・A。


 昔、王宮翻訳室で、彼女自身が赤い凍結紐を結んだ略号だった。

 本人同意を省略した代理接続。

 婚礼前の予定者紋を、中枢契約核の鍵として仮に通す危険手順。


 使えば早い。

 失敗すれば、鍵にされた者の契約紋へ負荷が返る。


「これは、王命でも解除できない凍結手順です」


 リディアの声に、ラウルが薬瓶を抱きしめた。


「凍結って、使っちゃ駄目ってこと?」


「使う前に、止めた理由を読まなければならない、ということです」


 技官は口元だけで笑った。


「翻訳官殿。あなたはすでに辞表を出した身だ。凍結判断の継続権限は王太子府に移っています」


「継続権限は移っても、凍結理由は移りません」


 リディアは、見習い少年の初日札を取った。

 灰色の受取人欄に、細い薔薇副印が浮かびかけている。


 ――王太子妃予定者照合下位材料。


 少年の名前が、薄くなる。


「やめて」


 パン屋の娘が、思わず札へ手を伸ばした。


「その子は、今日からうちで粉を運ぶ子です。王太子妃様の何かじゃありません」


「はい」


 リディアは頷き、古代語の格を一文字だけ戻した。


 権威格から、生活責任格へ。


 灰色だった札に、少年の名前が浮いた。

 その下に、小さく“初日食一食、賃金半日分”の文字が灯る。


 少年が息を呑んだ。


「……名前、戻った」


「次に、井戸番交代札」


 リディアは老人の札へ手を移す。

 こちらにも同じ薔薇副印が入りかけていた。


「水番の予定者は、王宮儀礼の素材ではありません。朝の水を配る責任者です」


 格印を戻す。

 老人の孫の名が、井戸番交代欄に灯った。


「昼の二桶ぶんまでなら、交代できます」


 老人が深く頭を下げる。


「助かる。これで膝を休ませられる」


 三枚目、薬受取代理札。


 リディアはそこで、指を止めた。


 代理人欄に、薔薇副印ではない影が混じっていた。

 古い翻訳官印。

 そして、婚約解消届で消えたはずの、リディア自身の契約紋の残滓。


 王太子妃予定者契約紋照合。


 それは、聖女一人を鍵にする手続きではなかった。


 切ったはずの旧婚約者紋。

 凍結済み略号。

 民間予定者から削られた微細な紋片。


 それらを重ねて、中枢契約核の鍵穴に見せかけようとしている。


「リディア様?」


 薬師が不安そうに呼ぶ。


 リディアは、薬受取代理札の名前だけを先に戻した。

 病人の家へ朝の薬が出せるよう、必要な一行だけを生活責任格へ避難させる。


 けれど凍結略号の影は、消えない。


「薬は出せます。見習いの食事も、水番の交代も、今日ぶんは守りました」


 契約技官が低く言う。


「なら、王太子府中枢の照合を進めても問題はないでしょう」


「問題は、そこからです」


 リディアは、再起動順序表を裏返した。


 裏面に、誰かが細い古代語で追記している。


 ――王太子妃予定者とは、花嫁を指す語にあらず。

 ――中枢契約核を開錠する者の仮名とする。


 井戸端が、静まり返った。


 リディアは自分の旧契約紋の残滓を、紙の上で見つめた。


「これは婚礼ではありません」


 彼女は言った。


「開錠です。しかも、鍵にする相手の同意欄がありません」

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