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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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契約魔法再起動試験費

水車は、夜明け前に一度だけ軋んだ。


 歯車一枚と滑車縄一束。

 それだけで、止まっていた粉挽きの音が戻る。


 パン屋の娘は、暗い倉庫の隅で大鍋を見張っていた。

 粉粥三十食分。

 老人と、熱のある家と、井戸番の子どもたちへ渡す朝の札が、机の上に並んでいる。


「あと一刻、灯りがもてば煮切れます」


 彼女がそう言った瞬間、倉庫のランプがふっと細くなった。


 炎が消えたわけではない。

 けれど芯の先だけを残して、まるで誰かに息を吸われたように暗くなる。


「薬棚の霜印も薄い」


 薬師が声を上げた。

 返してもらったばかりの薬瓶四十本が、木棚の中で小さく鳴る。

 保冷契約の青い印が、半分だけ白く濁っていた。


 ラウルが母の薬瓶を抱え直す。


「瓶は戻ったのに、冷やせなかったら……」


「駄目にはさせません」


 リディアはランプの台座に貼られた新しい札を剥がした。

 王太子府の薔薇副印。

 その下に、ヘルマン商会の細い記号。


 ――婚礼用契約魔法再起動試験費。

 ――民間契約未使用保留魔力より一時引当。


 倉庫番が青ざめた。


「未使用、ですか」


 リディアはその語を、静かに読み直した。


「この灯火は使われています。粉粥を煮るために」


 次に、薬棚の札を見る。


「この冷気も使われています。返還した薬瓶を一晩守るために」


 井戸番が差し出した朝水札にも、同じ小さな副印があった。


「この井戸契約も、明日の一桶を残すために止まっているだけです。未使用ではありません。生活維持予約分です」


 倉庫の入口に立っていた王太子府の侍従が、すぐに声を荒らげた。


「王太子府での再起動試験は、王国全体の復旧のためです。中枢で試験を行い、成功すれば民間契約も――」


「試験対象一覧を」


「王太子府管理文書です」


「民間契約から魔力を引き当てたなら、民間側の目的語を確認します」


 リディアは三枚の紙を机に置いた。


 一枚目。

 ヘルマン商会の納入確認書。


 二枚目。

 民間契約未使用保留魔力引当票。

 灯火、井戸札、薬棚保冷、粉挽き計量。


 三枚目。

 王太子府再起動試験対象一覧。

 婚礼印、招待状認証、薔薇門照明、祝宴搬入門。


 番号は同じだった。

 副印も同じだった。

 そして、どの紙にも「安全確認」と書かれていた。


「安全という語が、二つに潰されています」


 リディアは古代語の細い格印に指を置いた。


「生活側の安全は、灯火一刻、薬棚一晩、井戸一桶です。王太子府側の安全は、婚礼印が光ること、招待状が認証されること、薔薇門が開くこと」


「どちらも公共の安全です」


「公共という語の格が違います」


 侍従の眉が上がる。


「また格の話ですか」


「はい」


 リディアは、迷わず頷いた。


「古代語の『再起動』は、場所を目的語に取りません。停止によって被害を受ける契約群を目的語に取ります。王太子府を再起動する、という訳は省略ではなく改竄です。最初に起こすべきは、王太子府という建物ではありません。止まれば倒れる人が出る契約です」


 パン屋の娘が、暗くなった鍋を見た。


「この灯りが消えたら、粥は」


「王太子府の門より先に、夜の薬棚」


「殿下の婚礼門は、国の顔です」


 侍従は薔薇飾りを握りしめた。


「王都中の灯りが一本ずつ暗くなっても、中枢が光れば民は安心する」


「逆です」


 リディアは、薄くなったランプの下に朝水札を置いた。

 その隣に、薬棚の保冷札。

 さらに粉粥三十食の配分札。


「民の灯りを一本ずつ暗くして王太子府だけを光らせたら、契約魔法は安心ではなく徴発の道具になります。中枢が光っても、薬を飲めない家と朝食を煮られない鍋には届きません」


 倉庫番が、初めて王太子府側ではなくランプの火を見た。

 鍵束の影が、机の上で小さく震えている。


「……この火も、保留分だったのですか」


「ええ。使われない余りではありません。誰かが朝まで使う約束です」


 リディアは引当票の「未使用保留魔力」に赤線を引いた。


「招待状より先に、井戸札。薔薇門より先に、粉粥三十食。再起動は、光る順番ではなく、倒れない順番です」


 彼女は新しい暫定規則を書いた。


 一、停止中の民間契約に残された魔力を、未使用と訳してはならない。

 一、灯火、井戸、薬棚、粉挽きの生活維持予約分は、婚礼用再起動試験費から除外する。

 一、王太子府で先行試験を行う場合、同量以上の生活契約を同時に再起動し、民間側証人へ結果を開示する。


「署名を」


 薬師が最初に名前を書いた。

 続いてパン屋の娘。

 水車小屋の親方。

 井戸番。


 倉庫番は震える手で鍵番の欄に署名した。


「灯火一刻、薬棚保冷一晩、井戸一桶分を引当から外します」


 リディアが読み上げると、ランプの炎が細い芯から戻った。

 大きな灯りではない。

 けれど鍋の縁と、薬棚の霜印と、朝水札の文字が読めるだけの明るさが戻る。


 薬棚の青い印が、薄い氷の花を一つ咲かせた。


「冷気が戻った」


 薬師の声が、初めてほどけた。


「一晩なら守れます」


「朝まで煮られます」


 パン屋の娘は、鍋の底をかき混ぜながら笑った。


 ラウルは薬瓶を抱えたまま、ランプの明かりを見上げる。


「母さんに、朝の薬を飲ませられる」


 それは王都を救う再起動ではない。

 契約魔法の完全復旧でもない。


 けれど、一刻の灯火があれば、三十食の粥は焦げない。

 一晩の冷気があれば、薬瓶は無駄にならない。

 一桶の水があれば、薬を飲める人がいる。


 リディアは、引当票の余白に小さく書いた。


 ――再起動試験費、目的語返還済。


「この執行停止は無効です」


 侍従が、奥歯を噛んだ。


「王太子府の再起動順序表は、すでに中枢契約技官の承認を受けています。翻訳官ごときが、順番を変えることは――」


「順序表」


 リディアは顔を上げた。


 侍従が、しまった、という顔をした。


 彼の袖口から、薄い写しが一枚落ちる。

 拾おうとした手より先に、倉庫番の鍵束が紙の端を押さえた。


 リディアは、写しに浮いた古代語の見出しを読んだ。


 契約魔法再起動順序表。


 下位には、灯火、井戸、薬棚、粉挽き。

 そのずっと上に、王太子府中枢契約核。

 さらに最上位に、見慣れない項目があった。


 ――王太子妃予定者契約紋照合。


 リディアの指が止まる。


 その余白には、彼女が王宮翻訳官だった頃、危険すぎるとして凍結した古い略号が残っていた。


 灯りは戻った。

 薬棚も、朝水も、粉粥も、今夜だけは守れた。


 だが王太子府は、婚礼の名で、止まった契約魔法の一番深い場所を先に起こそうとしている。


「これは、再起動試験ではありません」


 リディアは写しを机に置いた。


「誰かが、王太子妃の契約紋で王国の契約核を開けようとしています」

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