婚礼準備費第二附則
パン屋の棚から、朝の白い粉が消えていた。
正確には、消えたのは粉そのものではない。
粉を挽くはずだった水車の歯車が、川沿いの臨時保管庫の奥で、薔薇の薄紙に包まれていた。
「半日だけでいいんだ」
水車小屋の親方は、欠けた歯車を抱えたまま言った。
「半日動けば、明日の朝の粥は作れる。子どもと年寄りの分だけでも」
薬瓶四十本を返した倉庫の空気は、まだ冷えていた。
薔薇印の箱は一つ開いた。
けれど棚の奥には、開いていない箱がいくつもある。
水車歯車。
滑車縄。
井戸桶の留め金。
どれも、薔薇の紙で包まれていた。
「婚礼準備費、第二附則」
リディアは副印の横に書かれた細い文字を読み上げた。
その瞬間、倉庫番の顔色がさらに悪くなる。
「王太子府の慶事に関わるものです。私の権限では、絶対に――」
「慶事」
リディアは言葉を繰り返し、倉庫の外を見た。
パン屋の娘が、空の小麦袋を抱えている。
薬師が、返された瓶を一つずつ洗っている。
ラウルが、母の薬瓶を胸に抱いたまま、粉粥の札を握っている。
祝いの支度は、誰かの朝食を削ってよい理由にはならない。
「第二附則の原文を見せてください」
「王太子府管理文書です」
「公共修繕費から充当したなら、公共側の目的語を確認する権限があります」
倉庫番は反論を探したが、薬瓶返還票に五者の署名が並んでいるのを見て、鍵束を握り直した。
箱の底から出てきたのは、一枚の写しだった。
王太子府儀礼調度室。
ヘルマン商会納入確認。
婚礼準備費第二附則。
その下に、古代語の短い一文がある。
「公共修繕費は、王家の慶事に際し、一時的に水路、器具、装飾、調度の準備へ充当できる」
倉庫番は、王都語の訳文を指した。
「この通りです。水路も器具も装飾も調度も、婚礼準備に含まれます」
「訳語が広すぎます」
リディアは原文の一語に指を置いた。
「ここでいう水路は、祝宴の薔薇水盤へ水を流す水路ではありません。民の飲水と粉挽きに使う水利路です。器具も、金杯や飾り皿ではありません。井戸桶、滑車縄、水車歯車のように、生活を維持するための器具です」
「しかし、同じ水路で、同じ器具です」
「違います」
リディアは紙を二つに分けた。
一方には、王太子府の訳。
水路、器具、装飾、調度。
もう一方には、生活側の目的語。
飲水路、粉挽き歯車、服薬瓶、朝食粉。
「古代語では、生きるための水と、飾るための水は格が違います」
倉庫番が瞬きをした。
「格……?」
「生活維持にかかる名詞は、主語の前に置かれます。王家儀礼にかかる名詞は、従属句です。第二附則は、王家の慶事だから生活資材を持っていってよい条文ではありません。王家の慶事であっても、生活維持分を満たした後の余剰なら一時充当できる、という制限条文です」
水車小屋の親方が、抱えていた欠け歯車を床に置いた。
「じゃあ、うちの歯車は」
「先です」
リディアは即答した。
「薔薇水盤より先に、水車歯車。祝宴の白パンより先に、子どもの粉粥。王太子府の婚礼札より先に、明日の朝食札です」
パン屋の娘が、袋の口を握りしめた。
「三十食だけでいいんです。老人と、熱のある家と、井戸番の子どもたちだけ。昼には薄焼きに変えますから」
「三十食」
リディアはその数字を返還票に書いた。
大きな勝利ではない。
王太子府の不正をすべて暴く数字でもない。
けれど三十食は、明日の朝に人が倒れないための数だった。
「歯車一枚と滑車縄一束を検品返還します。目的は粉挽き半日分。署名は、倉庫番、水車親方、パン屋代表、薬師、水番、翻訳官」
「お待ちください!」
倉庫の入口から、鋭い声が飛んだ。
王太子府の侍従だった。
胸元には小さな薔薇飾り。靴の泥を嫌うように、彼は敷石の上だけを選んで歩いてくる。
「王太子殿下の婚礼を汚すおつもりですか。慶事に用いる資材を、勝手に民間へ流すなど」
「流すのではありません。戻します」
「婚礼は王国の安定を示す公的儀礼です」
「朝食も王国の安定です」
リディアの声は、倉庫の木箱より静かだった。
「粉を挽けない村で、王家の安定を祝う白パンは焼けません」
侍従の頬が強張る。
「言葉を選びなさい。殿下の婚礼を、粥と同列に――」
「同列ではありません」
リディアは第二附則の原文を掲げた。
「順番を読んでいます。祝いは生活の上に乗ります。生活を削って祝いを先に置いた時点で、それは慶事ではなく徴発です」
倉庫番が、小さく息を呑んだ。
彼は悪人ではない。
ただ、王太子府の薔薇印があれば、薔薇を先にするよう教えられてきた。
リディアは新しい札に書いた。
一、婚礼準備費第二附則による公共修繕費の一時充当は、飲水、服薬、粉挽き、最低食を満たした後に限る。
一、生活維持資材は、薔薇印付きであっても生命維持分を先に検品返還する。
一、王家儀礼の名で生活名を消した訳文は、原文照合まで執行停止とする。
水車小屋の親方が署名した。
パン屋の娘が、粉で白くなった指で名前を書いた。
倉庫番は震えながらも、最後に鍵番として署名した。
「箱を開けます」
薔薇紙がほどかれた。
中から出てきた歯車は、泥を落とされ、油まで塗られていた。
使える。
親方は歯を一本ずつ確かめ、頷いた。
「半日なら回る」
「滑車縄は?」
「こっちも使える。今から戻せば、夜明け前に水車を起こせる」
パン屋の娘の目に、初めて力が戻った。
「三十食、作れます」
ラウルが、薬瓶を抱えたまま言った。
「母さんにも、粉粥を持っていけますか」
「もちろん」
パン屋の娘は、すぐに答えた。
「薬のあとに食べられるよう、薄く煮るから」
倉庫の奥で戻ったのは、歯車一枚と縄一束だけだった。
王都の儀礼書に載るような成果ではない。
けれど歯車一枚で水車は回る。
水車が半日回れば、粉になる。
粉が三十食の粥になれば、朝を越える人がいる。
リディアは返還票の端に、薔薇ではなく小麦の印を描いた。
「祝いの翻訳を、生活へ戻します」
そのとき、ヘルマン商会の納入確認書が箱底から滑り落ちた。
侍従が慌てて拾おうとする。
リディアの指が、先に紙の端を押さえた。
そこには、歯車や滑車縄とは別の費目があった。
――婚礼用契約魔法再起動試験費。
契約魔法は、王国全体で止まっているはずだった。
民の水も、薬も、粉挽きも、まだ仮規則でつないでいる。
それなのに王太子府だけが、婚礼のために再起動試験を申請している。
「誰が、王太子府だけ先に動かすつもりですか」
リディアが尋ねると、侍従は初めて言葉を失った。
倉庫の外では、水車小屋の親方が歯車を抱えて走り出している。
明日の朝の三十食は、たぶん間に合う。
だが王都の中心では、止まったはずの契約魔法を、誰かが別の順番で起こそうとしていた。




