臨時保管庫の薔薇印
川沿いの小さな倉庫には、薔薇の封緘箱ばかりが並んでいた。
井戸縄もない。
滑車もない。
水車の歯車もない。
あるのは赤い飾り紐と、王太子府の紋が押された保管札だけだった。
「ここが、井戸修繕税の行き先ですか」
リディアが尋ねると、倉庫番は帳簿を抱え直した。
「正しくは、契約魔法停止中の公共物資臨時保管庫です。盗難防止のため、王太子府が一時保全を――」
「保全」
リディアはその言葉を繰り返し、倉庫の入口で待つ人々を見た。
空の薬瓶を木箱に入れて抱えた薬師。
欠けた歯車を布で包んだ水車小屋の親方。
朝水札を握ったラウル。
保管されているのは、生活ではなかった。
生活へ戻るはずのものが、薔薇印の下で止められていた。
「保管対象外です」
倉庫番はラウルの札を見て首を振る。
「この札は無主地分の照会であって、王太子府保管物の引き取り証ではありません」
「でも、井戸修繕税はここへ来たんですよね」
ラウルの声は小さかった。
「母さんの薬を作る瓶が、戻ってこないって薬師さんが」
「瓶は衛生容器補填金です。井戸修繕税とは別――」
「別ではありません」
リディアは倉庫台帳を机に置いた。
荷札番号。
保管料控え。
未処理票。
三つの日付は同じだった。
荷馬車番号も同じだった。
そして、すべてに同じ薔薇印が押されている。
「生活名、徴収名、保管名を並べます」
彼女は紙を三列に分けた。
ラウルの家の朝水。
井戸修繕税。
王太子府臨時保管料。
薬師の薬瓶。
衛生容器補填金。
薔薇封緘容器費。
水車小屋の歯車。
水利設備維持費。
儀礼搬入装飾費。
「同じ荷馬車で運ばれたものが、現場では水や薬瓶や歯車と呼ばれ、徴収時には修繕費と呼ばれ、ここでは薔薇印を守るための保管料に変わっています」
水車小屋の親方が、布の中の歯車を握った。
「うちの歯車一枚で、粉挽きが半日止まる。半日止まれば、明日のパンが薄くなる」
薬師が、空瓶の箱を床に置いた。
「瓶が戻らないと、一回分ずつ薬を分けられない。薬草はあるのに、渡せない」
ラウルは朝水札を両手で持ったまま、薔薇の飾り紐を見つめている。
「その赤い紐、何本分で朝水になりますか」
倉庫番は答えられなかった。
リディアは帳簿の端を指で押さえる。
「薔薇飾り付き封緘紐一束。空薬瓶四十本分。臨時保管庫一日の保管料。水車歯車の応急修理一式。搬入札の朱印代。子どもの朝水三日分」
倉庫の空気が、少し冷えた。
数字だけなら、人は逃げ道を探せる。
けれど薬瓶と歯車と朝水に置き換えられると、薔薇は急に重くなる。
「薔薇より先に薬瓶です」
リディアは言った。
「保管印より先に歯車。王太子府の棚より、子どもの朝水」
「お待ちください」
倉庫番は慌てて帳簿を閉じようとした。
「王太子府の正規印がある以上、私の判断で出庫はできません」
「出庫ではありません。目的語の確認です」
「目的語?」
「古代語の保全条項には、守る対象が残ります。井戸修繕税の目的語は、井戸、水利設備、服薬水の維持です。薔薇封緘紐は、井戸ではありません」
リディアは赤糸で封じた荷札を開かず、透かすように掲げた。
「保全は、生活目的を満たすまでの一時手続きです。保管に必要な費用は、その後の残額からしか取れません。目的語を飾りへ移した時点で、これは翻訳ではなく置換です」
倉庫番の手が止まった。
彼は悪人の顔をしていなかった。
ただ、薔薇印があれば王太子府を先にする、と教えられてきた顔だった。
「では……何を先に返せば」
「薬瓶です」
リディアは即答した。
「水車は半日後の粉に間に合います。朝水は仮井戸札で今朝分を保障しました。けれど薬は、瓶がなければ今この場で分けられません」
薬師の肩が震えた。
「瓶が四十あれば、熱のある家に今日の分を配れます」
「四十本を検品します。倉庫番、薬師、水車親方、水番、翻訳官の五者で記録。王太子府への照会文には、出庫ではなく生命維持分の目的語返還と書きます」
「そんな文言、聞いたことがありません」
「だから今、書きます」
リディアは新しい紙を取り出した。
一、薔薇印付き保管物であっても、元費目が飲用、服薬、水利設備に関わる場合、生命維持分を先に検品返還する。
一、保管料は、元費目の生活目的を満たした残額からのみ請求できる。
一、薔薇封緘、飾り紐、専用棚は、井戸修繕税から支出できない。
倉庫番が、震える手で鍵を取った。
箱が開く。
薔薇色の薄紙の下から、空の薬瓶が出てきた。
割れないように包まれていた。
だが、その包み紙には「儀礼搬入装飾費」と書かれていた。
薬師は一本を光にかざし、すぐに頷いた。
「使えます」
彼女はその場で薬を分け直し、小さな瓶をラウルへ渡した。
「お母さんの夜の分。水は、昨日の仮井戸札で足りるね」
「はい」
ラウルは瓶を受け取り、胸に抱いた。
倉庫の中で救えたのは、たった一回分の薬だった。
けれど一回分の薬には、夜まで熱を待たせない力がある。
朝に名前を呼ばれた家が、夜に薬を飲める。
リディアは薬瓶の返還票に赤糸を結んだ。
その端で、止まっていたはずの契約紋が、弱く瞬いた。
「正しい目的語に戻ると、契約魔法は息をします」
倉庫番が青ざめる。
「では、王太子府の印が間違っていたと」
「印が間違ったのか、印を使った人が目的語をすり替えたのか。そこはまだ読みます」
リディアは薔薇封緘箱の底を見た。
大きな王太子府印の下に、もう一つ、小さな副印がある。
儀礼調度室。
そして、その横に細い文字で追記されていた。
――婚礼準備費、第二附則により公共修繕費から一時充当可。
ラウルの薬瓶が、リディアの指先でかすかに鳴った。
「薔薇飾りは、井戸の水で咲かせるものではありません」
彼女は副印を写し取り、王都への照会文に新しい題を付けた。
公共修繕費の儀礼転用を許す第二附則について。
倉庫の外では、水車小屋の親方が欠けた歯車を抱え直している。
次に返すべきものは、まだ棚の奥にあった。




