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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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無主地分、井戸修繕税

王宮財務局宛ての荷札は、泥で汚れていた。


 けれど品名欄だけは、妙に新しいインクで書かれている。


 ――無主地分、井戸修繕税。


 井戸端にいた誰もが、その言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。


 無主地。

 誰のものでもない土地。


 それなのに、井戸を直す税だけは王都へ運ばれている。


「村は存在しないとおっしゃいましたね」


 リディアは荷札を拾い上げ、代官所の書記へ向けた。


「え、ええ。旧台帳の誤記で、いまは王領の空白地です」


「では、この井戸修繕税は誰から徴収しましたか」


 書記の喉が鳴った。


 井戸のそばでは、ラウルが妹を背負ったまま桶を抱えている。母に薬を飲ませる一桶は、もう受け取った。けれど彼の家の朝は、それだけで終わらない。


 畑に撒く水。

 牛に飲ませる水。

 鍋を洗う水。


 村の名前が呼ばれないだけで、生活は毎朝少しずつ削られていく。


「税は、土地ではなく利用実態に対して仮徴収したものです」


 書記は早口になった。


「井戸は三村共同のものですから、周辺住民にも応分の負担が――」


「周辺住民」


 リディアはその言葉を、契約文の上に置くように繰り返した。


「村名を消すときは無主地。税を取るときは周辺住民。水を配るときは存在しない家。王都へ送るときだけ、井戸修繕税」


 東村の代表が、低く息を吐いた。


「そんな都合のいい呼び方があるか」


「あります」


 リディアは静かに答えた。


「不正な契約には、たいてい複数の名前があります。責任を避ける名前。金を取る名前。人を呼ばない名前」


 彼女は仮台帳に三本の縦線を引いた。


 一つ目、生活名。

 二つ目、徴税名。

 三つ目、契約名。


「同じ家が、生活ではラウルの家、徴税では無主地分、契約では空白として扱われています。これは誤記ではなく、名前を分けることで責任を逃がす処理です」


 ラウルが、桶の縁を握り直した。


「じゃあ、僕たちは……何なんですか」


 誰もすぐには答えなかった。


 リディアは彼の前に膝をつき、木札の赤線を指で押さえる。


「今日の手続きでは、仮井戸札の家です」


「仮……」


「仮は、軽いという意味ではありません。消されないように、正式な調査まで守るという意味です」


 彼女は水番に向き直った。


「今日から三日間、仮井戸札の家には朝一桶、夕一桶を保障します。用途は飲用、服薬、乳幼児、家畜の最低量まで。畑水は三村代表と相談して順番を決めます」


「修繕税を払っているなら、もっと受け取っていいはずだ」


 北村の若い男が言った。


 その不満は正しい。

 けれど正しさだけで井戸水は増えない。


「だから、順番を決めます」


 リディアは井戸脇の石に手を置いた。


「王冠より先にパン。王領境界より先に朝水。怒りより先に、今夜の量です」


 川下村の女が頷いた。


「うちは洗濯を昼へ回せる。薬の家を先にして」


「北村は牛を一頭だけ夕方に回す」


「東村は畑の端を明日にする。その代わり、王都へ持っていく証言に名を入れてくれ」


 名前が出るたび、リディアは書き留めた。


 譲った量。

 譲れない理由。

 誰が聞いたか。


 美談にしないための記録だった。

 明日、誰かが「そんな約束はなかった」と言ったとき、生活を守るための紙だった。


 代官所の書記が一歩下がる。


「そのような暫定規則は、王都の許可なく――」


「王都への送金荷札があります」


 リディアは荷札を掲げた。


「井戸修繕税を徴収した時点で、代官所はこの井戸と住民の利用実態を認めています。認めた生活から水だけを外す契約解釈はできません」


「翻訳官殿は、契約魔法が止まっている今だけ強気に――」


「魔法が止まっているから、紙が読めるのです」


 リディアの声に、井戸端の空気が沈んだ。


 魔法契約が動いていたころ、誤った名前は光で隠されていた。

 契約紋が反応すれば正しいとされ、反応しなければ存在しないとされた。


 けれど今は、光がない。


 残るのは、削り跡と、受領印と、朝の桶の数だった。


「暫定規則を掲示します」


 彼女は木札の裏へ書いた。


 一、無主地分として徴収された井戸修繕税は、徴収元の生活名を確認するまで王都送金を凍結する。

 一、生活名、徴税名、契約名のいずれかが食い違う家は、消失扱いではなく調査中として呼名する。

 一、呼名されない家の飲用・服薬水は、境界争いより先に配る。


 水番の老人が、その文字を見つめた。


「呼名……」


「はい」


 リディアは頷く。


「名前を呼ぶところから、生活は戻ります」


 老人は井戸の縁に立ち、震える声を張った。


「仮井戸札、ラウルの家。夕一桶、保障」


 ラウルの妹が、兄の背中で小さく笑った。


 たった一桶だった。

 王都の会議で語られるような勝利ではない。


 けれどその一桶で、母の薬は夜にも飲める。

 鍋は洗える。

 明日の朝、少年はもう一度、名前を呼ばれる。


 リディアは荷札を封筒に入れ、赤い糸で閉じた。


「この荷札は証拠として王都へ戻します。ただし送金ではありません。照会です」


 アルヴェン公爵家の使者が、境界地図を広げる。


 古い村境杭の位置。

 無主地とされた空白。

 井戸修繕税の徴収印。


 三つを重ねると、一本の細い道が浮かび上がった。


 王都へ向かう街道ではない。

 川沿いの倉庫へ抜ける、荷馬車だけの道だった。


「この道は、台帳にありません」


 使者の声が低くなる。


「けれど、井戸修繕税の荷だけがここを通っています」


 リディアは地図の端に書かれた管理印を見た。


 王宮財務局ではない。

 聖女庁でも、代官所でもない。


 薔薇の形をした、見慣れた紋だった。


「……王太子府の臨時保管庫」


 彼女が読み上げた瞬間、代官所の書記が荷札へ手を伸ばした。


 リディアは一歩下がり、封筒を胸に抱く。


「王冠より先にパン。境界より先に朝水」


 彼女は、井戸端に掲げた暫定規則を見上げた。


「そして、証拠より先に燃やす手は、契約違反です」


 赤い糸で閉じた荷札の端に、契約紋が弱く光った。


 止まっていたはずの契約魔法が、ほんの一瞬だけ、紙の上で息をした。

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