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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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四つ目の村の井戸札

封印井から汲んだ水を、三村の代表が順番に受け取っていく。


 井戸端には、夜明け前から桶が並んでいた。


 薬を飲ませる家。

 乳牛に一桶だけ飲ませる家。

 昨日から洗濯を止めて、子どもの顔だけ拭いていた家。


 リディアは仮台帳に線を引きながら、水番の声を聞いていた。


「東村、三桶」

「北村、二桶」

「川下村、一桶」


 最後の桶が減ったところで、木札が一枚、リディアの前に残った。


 古い札だった。

 端は欠け、紐は何度も結び直されている。

 けれど、井戸札の裏に刻まれた契約紋は、他の札と同じだった。


「……この札の家は?」


 リディアが尋ねると、水番の老人が目を伏せた。


「呼ぶ村名が、ありません」


 木札を握っていたのは、十歳ほどの少年だった。

 背中に小さな妹を負い、空の桶を片手で押さえている。


「母さんが、熱を出してます。井戸札はあるのに、うちはいつも最後まで呼ばれません」


 代官の書記が咳払いをした。


「その札は古いものです。旧台帳の誤記でしょう。四つ目の村など、この水利契約には存在しません」


「存在しないなら、なぜ契約紋が残っていますか」


 リディアは札を返さず、机の上に三冊の帳面を開いた。


 出生簿。

 納税名簿。

 水番台帳。


 少年の名は、出生簿にあった。

 妹の名もあった。

 父母の名も、同じ筆跡で記されていた。


 ただし、村名の欄だけが空白だった。


 納税名簿には、同じ家の印があった。

 麦税、橋税、井戸修繕税。

 どれも受領印が押されている。


 ただし、納税村名だけが削られていた。


 水番台帳には、前年までの受水順があった。

 東村の後、北村の前。

 いつも朝の二番目に水を受けていた家々の印。


 ただし、今年の欄だけが欠番になっている。


「これは誤記ではありません」


 リディアは赤い糸を三冊の空白へ置いた。

 空白の位置が、同じ形で重なった。


「村が滅びた記録ではなく、村名を書けないようにした処理の痕跡です」


 書記の顔色が変わった。


「翻訳官殿、王領の境界は代官所が――」


「王領の線引きより先に、朝水を受け取る名前です」


 リディアの声は大きくなかった。

 けれど、井戸端の桶を持つ手が止まった。


「税を受け取った家を、契約上だけ存在しない扱いにはできません。水利契約が停止している今だからこそ、魔法ではなく紙と印と水番の記憶で確かめます」


 彼女は仮札の裏へ、少年の家名を書いた。


「暫定規則。出生簿、納税名簿、水番台帳のうち二点が一致する家には、飲用、服薬、乳幼児分に限って仮井戸札を発行します。水番個人に責任は負わせません。三村代表と、王宮契約翻訳官リディアが共同で記録します」


 水番の老人が震える手で頷いた。


「……呼んで、よろしいですか」


「お願いします」


 老人は少年の木札を見た。

 消されていた村名の代わりに、リディアが赤線で囲った空白がある。

 空白はもう、なかったことにするための穴ではない。

 未読箇所として保全された証拠だった。


「仮井戸札、ラウルの家。一桶」


 少年が息を止めた。


 それから、妹を背負ったまま、桶を差し出した。


 水が木桶の底を打つ音は、小さかった。

 けれど、その場にいた誰もが聞いた。


「母さんに、薬を飲ませられます」


 少年の声に、三村の代表たちは目を逸らさなかった。


 リディアは濡れた井戸札を布で拭き、欠番の札を順に並べた。


 一枚。

 二枚。

 三枚。


 並べるほどに、札の角の欠け方が同じ向きを指していく。


 リディアは仮台帳の端に、少年の名をもう一度書いた。


 ラウル。


 水番の老人が、その横に震える字で一線を引く。

 東村の代表が印を押し、北村の代表が頷き、川下村の若い女が自分の桶を半歩後ろへ下げた。


「うちの洗濯は、昼でいい」


 誰かがそう言うと、井戸端に張っていた空気が少しだけほどけた。


 リディアはその小さな譲り合いを、契約文の欄外に書き留めた。

 これは美談ではない。

 次に争いが起きたとき、誰が何を譲り、何を受け取ったかを守るための記録だった。


 アルヴェン公爵家の使者が、地図を広げた。


「リディア様。この欠けの向きは、村境杭の古い位置と一致します」


 リディアは地図上の空白を見た。


 そこに村名はない。

 けれど、井戸札の欠番と、出生簿の空欄と、納税名簿の削り跡が、同じ場所を指していた。


「消されたのは村ではありません」


 彼女は赤い糸を、地図の空白へ置いた。


「領地境界です」


 そのとき、書記の鞄から、王都行きの荷札が一枚滑り落ちた。


 宛名は王宮財務局。


 品名欄には、こう書かれていた。


 ――無主地分、井戸修繕税。

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