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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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第二条の開示は、王冠より先にパンを守る

王城前の広場に、朝の鐘が二度鳴った。


 普段なら王宮へ向かう馬車の音にかき消されるはずの鐘は、その日だけ、妙に遠くまで響いた。広場に集まった人々が息を止めていたからだ。


 パン屋の親方は粉袋を抱え、薬房の女主人は解熱薬の小瓶を布で包み、井戸番の少年は昨夜から握りしめていた配水札を胸に当てている。


 王冠の危機、聖女制度の停止、隣国公爵家の名。

 大人たちはいくらでも大きな言葉を並べられる。


 けれど、いま広場で待っている人々にとって契約魔法とは、昼にパンが焼けるか、熱を出した子どもへ薬が届くか、井戸の水が公平に配られるか、ただそれだけのものだった。


「リディア・アルヴェン」


 宰相閣下が、広場の仮設台の上から私を呼んだ。


「建国契約第二条を、民の前で読むことを許可する」

「許可ではありません」


 私は古い羊皮紙を両手で持ち直した。

 王冠印の下、聖女印の横、誰にも触れられていなかった細い余白に、淡い金の文字が浮かんでいる。


「第二条は、民の前で読まれた時点で発効する条文です。王宮が許すから読むのではありません。読まれないまま王冠契約が民の生活契約を妨げた時、翻訳官は読む義務を負います」


 王太子殿下の顔が、目に見えてこわばった。


「また義務か。君はどこまで王家を縛るつもりだ」

「縛るのではありません。結び直すのです」


 私は一歩、台の前へ出た。

 広場の端で、井戸番の少年が唇を噛んでいる。昨夜、彼は一番古い井戸札を持って走ってきた。王宮の安全装置が止まり、配水順の契約が空白になったせいで、強い家の使用人たちが列を崩しかけたのだ。


 小さな札一枚を守れない王冠なら、王冠の意味がない。


「読みます」


 古代語の文字列は、喉の奥で一度だけ熱を持った。


「第二条。王冠は、民の生活契約を保護するために置かれる。ゆえに、パン、薬、水、寝床、賃金、通行、救命に関わる生活契約は、王冠契約に優先する」


 広場が揺れた。


 歓声ではなかった。怒号でもなかった。

 長い間、誰も名前をつけられなかった息苦しさが、ようやく言葉になって外へ出た音だった。


「王冠より、パンが先……?」


 パン屋の親方が呆然と呟く。


「王冠を捨てろ、という意味ではありません」


 私は親方へ向けて言った。


「王冠は、パンを焼く火を守るためにあります。薬を届ける道を守るためにあります。井戸の列を公平にするためにあります。それを妨げる命令は、建国契約の目的から外れる。だから停止できる」


 薬房の女主人が、小瓶を握ったまま膝をつきかけた。


「では、昨夜の解熱薬契約は……」

「第二条の優先対象です。王宮の面子では止められません。薬房、孤児院、運搬人、受け取り役の四者署名を、暫定監査印で繋ぎます」


 私は羊皮紙の端へ指を当てた。


「一日分では足りません。七日分まで、生活契約として保護します」


 金の文字が、細い糸のように伸びた。

 薬房の女主人の小瓶に、淡い光が灯る。広場の奥で待っていた孤児院の助手が、顔を覆って泣き出した。


 それを見て、王太子殿下が低く言う。


「勝手に監査印を使うな。監査権はまだ正式に——」

「ですから、正式にします」


 宰相閣下が、私の後ろで書類を広げた。

 王宮文官たちが息を呑む。昨夜、私が彼らと一緒に作った暫定規則だ。誰かを罰するためではない。明日の朝、また同じ列が壊れないようにするための規則。


「王宮契約監査院、暫定設置案」


 宰相閣下の声は、疲れていた。けれど、逃げる声ではなかった。


「第一。監査院は王冠契約、聖女印、商会印、生活契約の衝突を読む。第二。生活契約に関わる応急復旧は、翻訳官長および現場代表二名の署名で発効できる。第三。王族、神殿、商会は監査記録の閲覧を妨げてはならない」


「そんなものを作れば、王家の命令が軽くなる!」


 王太子殿下が叫んだ。


 今度は、私が黙る番だった。

 怒りではなく、失望でもなく、ただ確認したかった。彼が本当に、まだその順番で世界を見ているのかを。


「殿下」


 私は井戸番の少年を指した。


「昨夜、あの子は配水札を守るために、王城の門まで走りました。列を崩せば下町の井戸が荒れる。荒れれば病が出る。病が出れば薬房契約が増える。薬房契約が増えれば運搬契約が詰まる。そこまで読めたからです」


 少年の肩がびくりと跳ねた。


「彼は王族ではありません。聖女でもありません。商会主でもありません。けれど、彼の札が正しく働かなければ、王都は半日で壊れます」


 私は殿下へ向き直った。


「王家の命令は、軽くなるのではありません。民の生活を守った時だけ、重くなるのです」


 広場の空気が変わった。


 誰かが拍手をした。パン屋の親方だった。

 次に薬房の女主人が小さく手を叩き、井戸番の少年が慌てて真似をし、やがて広場全体へ、雨が石畳を叩くような拍手が広がった。


 王太子殿下は何か言い返そうとしたが、声にならなかった。


 その沈黙を破ったのは、黒い外套の隣国使節だった。


「アルヴェン公爵家は、暫定監査院を保証する」


 使節は短い巻物を差し出した。


「ただし、条件がある。第二条の生活契約優先を王都だけに留めないこと。国境沿いの水利契約にも、同じ監査を入れていただきたい」


 水利。


 その言葉に、井戸番の少年が私を見た。

 昨日まで王宮の奥に隠されていた条文は、もう広場のパンと薬と井戸札に繋がっている。そして次は、領地の川と水門へ繋がろうとしていた。


「水利契約は、どこの領地ですか」


 私が尋ねると、使節は巻物の封蝋をこちらへ向けた。


 封蝋には、王冠印ではなく、ひび割れた水門の印が押されていた。


「アスト川中流。三つの村が、昨夜から水を失っている」


 広場の拍手が、少しずつ止んだ。

 終わりではない。

 これは、王宮契約監査院の最初の仕事だ。


 私は羊皮紙を閉じ、井戸番の少年へ頷いた。


「では、パンが焼けるうちに出発準備をしましょう。水が止まれば、次は粉がこねられませんから」


 王冠より先にパンを守る。

 第二条は、その日初めて、民の言葉になった。

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