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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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聖女制度の古文書には、翻訳官を外してはならないと書かれていました

パンは焼けた。


 けれど、昼前になっても、パン屋の前の列は短くならなかった。


「焼き上がりはあるんです。なのに、配給札が動きません」


 粉で白くなった職人が、籠いっぱいの丸パンを前にして唇を噛んでいる。焼きたての匂いは路地に満ちているのに、棚へ並べるための契約札だけが沈黙していた。


 列の中には、薬を飲む前に何か食べなければならない老人がいる。午後の仕事へ出る前に腹へ入れておきたい石工がいる。小さな手で銅貨を握りしめる子どもがいる。


 王宮契約の失敗は、玉座の上ではなく、昼食の前で人を待たせる。


「リディア様、王宮から馬車が来ています」


 公爵家の侍従が告げるのとほぼ同時に、通りの向こうから黒塗りの馬車が止まった。王宮紋、神殿紋、そしてアルヴェン公爵家の銀の鷹印。三つの権威が、狭いパン屋の前に並ぶ。


 王宮の実務官が青い顔で降り、神殿の書記が分厚い木箱を抱え、隣国公爵家の使者が一歩遅れて礼をした。


「リディア殿。建国契約の確認を、王宮で」

「王宮ではなく、ここで読みます」


 リディアは籠のパンを見た。


「優先順位は、命に近い順です。王冠の面子より、薬を飲む前のパンが先です」


 王宮実務官は何か言いかけて、列の老人と子どもを見て黙った。


 神殿書記だけが眉をひそめる。


「聖女制度の原本を路上で開くなど前例がありません」

「前例どおりにした結果、街の契約札が止まっています」


 リディアが静かに答えると、隣国の使者が木箱の留め金に手を添えた。


「我がアルヴェン公爵家には、建国時の写しがございます。王国側が原本を出せないなら、写しを公開監査に供します」


 神殿書記の顔色が変わった。


「それは外交上――」

「安全装置を壊した国に、契約核の単独管理権はありません」


 使者の声は穏やかだったが、パン屋の石壁より硬かった。


 木箱が開かれる。

 中から現れたのは、金糸で縁取られた聖女制度の古文書だった。表紙には光の印がある。けれどリディアが最初に見たのは、文字ではない。


 余白だ。


 削られ、塗りつぶされ、別の筆跡で継ぎ足された余白。


「……聖女印は、契約を強める印ではありません」


 リディアは指先を止めた。


「何ですって?」


 神殿書記が声を裏返す。


「原文では『奇跡による上書き』ではなく、『人命に反する契約を一時停止する確認印』です。聖女は契約をねじ曲げる役ではない。契約が人を傷つける前に止める役です」


 列の後ろで、誰かが小さく息を呑んだ。


 聖女セレーネも、馬車の陰に立っていた。豪奢なヴェールの下で、唇がわずかに震えている。


「では、わたくしが押していた印は……」

「本来なら、翻訳官の異議申立て確認が必要です」


 リディアは古文書の中央、半分削られた一文を読み上げた。


「『聖なる確認者は、古代語翻訳官の異議を越えて、王冠印を進めてはならない』。ここが削られています。削られたから、聖女印は止まるべき場所で止まれなくなった」


 セレーネの顔から血の気が引いた。


 王宮実務官は額を押さえる。


「つまり、翻訳官殿は……」

「便利な通訳ではありません。契約魔法が人を傷つけないための、最後の確認者です」


 言った瞬間、パン籠の横で小さな契約札が震えた。


 配給札ではない。薬房から持ち込まれた解熱薬の受領札だ。赤い斑点のある子どもを抱いた母親が、泣きそうな顔で札を差し出していた。


「薬を受け取る契約も止まっていて……この子、熱が」


 王宮実務官が慌てた。


「国家契約の復旧が先では」

「いいえ」


 リディアは即答した。


「発熱している子どもが先です」


 古文書の正しい条項を一行、街の互助契約へ戻す。聖女印は上書きではなく停止。翻訳官の異議は妨害ではなく確認。王冠印は、民の命に近い契約を追い越してはならない。


 リディアはパン屋、薬房の番頭、井戸番の老女に立ち会いを求めた。


「今日一日分だけ、解熱薬の受領契約を街側で代位解除します。王宮の利権ではなく、生活契約として」


 セレーネが一歩前へ出た。


「わたくしの印も、使えますか」


 リディアは彼女を見た。

 かつて王子の隣で沈黙していた聖女。権限外改変の印を押した相手。けれど、今その手は震えていた。


「上書きではなく、停止確認としてなら」


 セレーネは深く頷き、初めてリディアへ頭を下げた。


「……知らなかったでは、済みませんわね」

「済みません。けれど、知った後の印なら、まだ使えます」


 聖女印、街の立会印、翻訳官の異議確認。

 三つが正しい順で光る。


 薬房の札がほどけた。母親が子どもを抱いたまま駆け出し、パン屋の主人が籠から一つ、柔らかな丸パンを紙に包んで渡す。


「薬の前に食べな。代金は明日でいい」


 子どもが弱々しく頷いた。


 列の空気が変わる。

 王宮がリディアを呼び戻すための場ではなく、街がリディアに優先順位を預ける場になっていた。


 隣国の使者が静かに告げる。


「アルヴェン公爵家は、リディア殿の独立監査権と身辺保護を保証いたします」


 王宮実務官は苦い顔で頷いた。


「王宮は、聖女制度の改定履歴を公開監査に提出します」


 神殿書記も、セレーネの視線を受けてようやく頭を下げた。


「聖女院は、翻訳官確認なしの聖女印使用を停止します」


 リディアは古文書を閉じなかった。

 まだ、余白に薄い削り跡が残っている。


「待ってください。ここに、第二条への参照があります」


 王宮実務官が凍りついた。


「第二条は、建国契約の儀礼文です。実効条項では――」

「削った人は、そう見せたかったのでしょう」


 リディアが指でなぞると、空白の王冠印が淡く光った。

 だが次に光ったのは王冠ではない。


 パン屋の配給札。

 薬房の受領札。

 井戸番の交代札。


 街の小さな契約が、王冠印より先に反応した。


 リディアは、削られた第二条の冒頭を読み上げた。


「『王冠は契約を束ねる。ただし、民の生活契約は王冠に優先する』」


 焼きたてのパンの匂いの中で、王宮の誰も、すぐには言葉を返せなかった。

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