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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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アスト川水利契約

アスト川の朝は、鐘ではなく桶の音で始まる。


 木桶を持つ人々が井戸札を握りしめ、まだ薄暗い広場に並んでいた。札には青い印が押されている。三村共有の水利契約が正常なら、その札一枚で朝の飲み水と、最低限の家畜水が受け取れるはずだった。


 けれど今朝、井戸番の老人は札を読み上げられず、井戸の蓋に手を置いたまま首を横に振っていた。


「契約印が反応しねえ。水門を開けていいのか、わしには責任が取れん」


「子どもが喉を乾かしているんだぞ!」


「うちの荷馬も倒れかけてる。馬が倒れたら、今日の粉も薬も運べない」


「上流ばかりため込むな!」


「ため込んでるんじゃない。水門番が開けられないんだ!」


 三村の代表が同じ井戸の前で睨み合う。誰か一人が悪いわけではなかった。上流村は水門破損の責任を恐れ、中流村は井戸札の権利を守ろうとし、下流村は家畜が倒れた後の畑と荷運びを考えている。


 リディアは泥のついた井戸札を一枚受け取り、濡れた指で印章の縁をなぞった。


「王宮の契約核が止まると、玉座だけでなく朝の水まで止まるのですね」


 護衛の騎士が小声で言う。


「王宮からの復旧命令書を見せますか」


「先に水です。命令書は喉を潤しません」


 リディアは井戸の縁に膝をつき、古い水利契約の写しを広げた。羊皮紙は雨と手垢で端が波打っている。そこには、アスト川三村が百年前から守ってきた配水手順が、古い王国語と地方語の混じった文で書かれていた。


『朝水は、三村の生活用を損なわぬ範囲で、井戸札の順に配すること』


 村長の一人が苛立った声を上げる。


「ほら、井戸札の順だ。先に並んだ者からだろう」


「違います」


 リディアは即答した。


 広場が静まる。


「この契約でいう『朝水』は、ただ早く並んだ人の飲み水だけではありません。三村が今日一日を始めるための最低限の水です。飲み水、病人と乳幼児の水、倒れると荷運びが止まる家畜の生命維持分。その後に、井戸札の通常配分です」


「家畜を人より先にするのか!」


「先ではありません。倒れる前に一桶だけです。荷馬が倒れれば、午後には薬も粉も届かなくなります。明日の人の水まで失われます」


 リディアは井戸札を三列に分けて石畳に置いた。


「一列目、乳児、病人、高齢者の家。二列目、荷馬と乳牛を一頭だけ持つ家。三列目、通常配分。商用の洗浄水と染物水は午後まで停止です」


「染物屋を止めるのか」


「今日だけです。布より先に、喉です」


 誰かが笑うでもなく、怒鳴るでもなく、ただ息を飲んだ。


 水門番の老人が震える手で杖を握る。


「だが、契約印なしで水門を開けたら、わしの責任になる」


「なりません。ここに非常時代替配分の条があります」


 リディアは羊皮紙の下端を指した。古い言葉は、王都の書記なら『王命を待つこと』と訳すだろう。だが地方語の接尾辞が一つ付いている。


「これは『王命』ではなく、『共同立会』です。三村の立会人が一名ずつ、水門の前で配分を確認すれば、水門番個人の責任にはなりません」


「本当か」


「本当です。契約は人を罰するためだけのものではありません。怖くて手を動かせない人に、責任を分けるためのものでもあります」


 リディアは石畳に短い暫定規則を書いた。


 一、朝一番は乳幼児・病人・高齢者の飲み水。

 二、荷馬・乳牛には生命維持分を一桶。

 三、水門は三村立会いで一段だけ開く。

 四、井戸札は権利の札ではなく、受け取り確認の札として扱う。


「王国の契約より先に、桶一杯の朝水です」


 その言葉で、上流村の代表が歯を食いしばりながら頷いた。


「……立会人を出す」


「中流もだ」


「下流は、荷馬の分を一桶で我慢する。その代わり、午後の配分をもう一度読んでくれ」


「読みます」


 水門番が軋む歯車に手をかけた。三村の立会人が印のない札を掲げる。ゆっくりと、水門が一段だけ上がった。


 細い水が石の溝を走る。


 井戸前の列が動いた。小さな女の子が両手で受け取った椀に口をつける。咳き込んでいた老人の家へ、桶が一つ運ばれる。倒れかけていた乳牛が、鼻先を水に沈めた。


 歓声ではなかった。


 広場に広がったのは、長く止めていた息を吐くような安堵だった。


「リディア様」


 護衛が、少しだけ声を明るくした。


「これでアスト川は落ち着きますか」


「今朝だけは」


 リディアは濡れた井戸札を光に透かした。青い印の下に、削られた小さな文字がある。王宮で見た契約核の空白と同じ、わずかな欠け方だった。


「この札、本来はもう一つ水源を示しています」


「水源?」


「非常用の封印井です。三村の誰かが忘れたのではありません。契約から、忘れさせられている」


 水門の音が、遠くで止まった。


 リディアは井戸札の欠けた文字を指で押さえ、静かに言った。


「次は、水が足りない理由ではなく、隠された井戸を探します」

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