⑬富士山と金北山。
なんてことかしら。
一億円も出したというのに
この「夫」は欠落品だわ。
とんでもない山男じゃないの。
とても素敵な「夫」だと思っていたのに。
「当たりくじを引いたわ。」
なんて呑気に喜んでいた自分を引っ叩いてやりたい。
今すぐ引っ叩きたいのはこの目の前の山男だけれど。
すっかり山に取り憑かれてしまっている。
大学時代にそんな先輩がいたわ。
山に惚れすぎて2年も浪人したのよ。
でもその後、商社に入って世界を飛び回っているんだったかしら。
いいえ、違うわ。
商社は辞めて突然弁護士になったのよ。
なぜ?って聞いたら
「法学部を出たからさ。」
って答えにならない答えで返された。
ああ今はそんなことどうでもいい。
息子が高山病だと言うのに
まだ上に行こうとするの?
このまま悪化して取り返しのつかないことになったらどうするつもり?
私がせっかく手に入れた「旬君」よ。
何かあったらどうしてくれるの。
こんな「夫」を販売してきた銀縁さんに文句言ってやりたい。
でも「返品不可。」って契約書のどこかに書いてあったわね。
困ったわ。
この山男、どうしたらいいかしら。
犬や猫じゃないからムチで叩くわけにもいかない。
富士登山の計画を聞いたときから懸念があったんです。
標高2,000メートル以上にポンと降りてさらに上に行く。
身体を慣らす時間は取られていない。
それはまずいんじゃないかしら?
でも私、山男に委ねてしまいました。
山慣れしているようですから何か秘策があるのかもと。
いいえ、白状すれば
秘策があると思い込みたかっただけ。
ハンサムな彼のハロー効果に惑わされて
強く言えなかっただけ。
「その計画は危険。」
頭の中ではずっと警戒警報が鳴っていた。
それなのにそれを無視していそいそと山の準備をしてしまった私はなんて浅はかだったのでしょう。
首都高を抜けたあたりでこの山男が声を掛けてきた時が最後のチャンスだったと思う。
きちんと伝えるべきでした。
「あなたはよくても子どもたちが高山病になるわ。」
でも私はバックミラーで山男の大きな目に見つめられて愚かにもまたなんだか言えなくなる。
「この人に嫌われたくない。」
そんな風に考えてしまった。
私の中の「女性」が性懲りもなく出てきたわけ。
だから話を逸らした。
夜の首都高は深海、
斜め前のトラックはチカチカひかるクラゲ。
どうでもいいことを口走ったわね。
そんな連想をしたのは昨日寝る前に
私とお兄ちゃんと旬君の3人で『深海の世界』
と言う図鑑を読んだからよ。
何度も自分に言うわ。
私はバカだった。
私はこの「家族」の女神になりたかったはず。
私の大事な「子どもたち」を守らなくてはいけなかったのに。
恋心なんて人を惑わすだけって24歳の駆け落ちであれほど思い知ったって言うのに。
20年近く経ったせいかしら。
すっかり忘れてしまっていたわ。
迂闊にもほどがある。
私が山男はリュックを下ろし
私の「旬君」をおんぶしていました。
頂上に連れて行く気ね。
と思ったのと同時に
過去の記憶がよみがえります。
金北山を自分の足で登頂した感動と
若い自衛官におんぶされていた男の子のことを。
あれは小学一年生の時のだったわ。
若い自衛官は男の子を下ろすと
「来年またリベンジな。」
と言って拳を出します。
男の子はうなづいてその拳に自分の小さな拳を当てていました。
自衛官は私の方を見ると
「やったな!」
と言って私にも拳を出します。
私も男の子のマネをして自分の拳を当てました。
あの時の山の空気、
今と似ている。
いいえ、感慨にふけっている場合じゃないわ。
金北山は低山です。
あの男の子は高山病ではなく純粋な疲労でした。
だからあの自衛官は上を目指したんです。
富士山は状況が違うわ。
あの時の自衛官のように
見せたいてっぺんがあるとしても
今は断念しなければならない。
上に行くなら許さないわ。
山男は私より格段に力が強いでしょう。
どうしたら息子を取り返せるかしら?
ジリジリ考えていると
山男は下る決断をしていました。
旬君が山男の耳元で何か言っています。
山男の険しかった表情が優しくなっていく。
子どもに笑いかける「パパ」。
・・・。
あら?
さっき抱いた怒りや嫌悪の感情が他の感情へひっくり返っていきます。
信頼、喜び、あとはナニかしら?
やっぱり少し恋心かしら?
いえ、それは消去しなくてはいけない。
私はそれで判断を誤ったから。
一発逆転のオセロゲームみたいに真っ黒から真っ白へ、パタパタパタ・・・。
こんな感情のゲームを繰り返すのが「家族」なのかもしれないわね。
私は「パパ」が下ろしたリュックを背負いました。
ズシっと肩にきて少しよろめく。
そうよね。
私とお兄ちゃんと旬君は手ぶらですもの。
「パパ」のリュックサックには水も食料も雨ガッパも防寒着も4人分全部入っている。
重たいリュックを背負うから私は下を向いて歩くことになります。
地面に映った私たち4人の影が見えました。
旬君をおんぶするパパ。
続いて重いリュックサックを背負う「ママ」を心配して私を振り向く兄ちゃん。
「大丈夫よ。」と言う「ママ」である私。
美しい影絵の一コマ。
私、やっぱりいい買い物をしたのね。




