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21話


 部屋を出たメルフィは、腰に忍ばせていた小さなナイフを取り出し、刃先に夕焼けを乱反射させながら、無機質な通路を息を吐いて進む。


 窓の外に広がるのは、恒星が雲上の地平線へと沈み込む間際、風に靡く金色の平原。


「確かあの子たちと出会ったのも、こんな季節だったか」


『なんだよ、一体こんな夜中に――』


 トントンと部屋に扉を叩く音が部屋に響いた夜中。 すっかり外が暗くなった時間の来訪、それはあまりに失礼だった。


 普段なら強風に煽られた扉の音だろう気にも留めずに、耳に手を当てて眠りについていただろう。


 そう断言出来るほどにノックの音は小さく、妙に弱々しかった。


『ほんと――信じられないんだけど、はいはい、今行きますよ』


 大きな欠伸をして目を擦る。


 もう何度目か。 この廃楽園において扉が音を立てるのは、決まって強風に煽られた時だけ。


 どうせそこには誰もいない。


 分かっていた。 そのはずなのに私はこの日も不思議とドアノブを握って期待していた。


『お母さん、また来るね!』


 そう言って毎月来ていたアンリユが、忽然と来なくなって数年。


 いつも扉が音を立てると過敏に反応してして開いてしまう、もしかしたら――と。


『はーい……って、まぁ誰もいないよね……』


 外に顔を出して様子を確認してみる。


 期待混じりで開いた扉の先には予想どおり誰も見当たらない。


『まぁ、やっぱりあの子じゃないか』


 ため息をついたメルフィが扉を閉めようとした時、自分のズボンが何かに引っ張られる感覚に気づいた。


『ごは……ご飯を少しだけくだちゃい……この……これ、あげます。だから』


 破れた服に身を包む少女がそこにいた。


 息絶え絶えになりながら、生きているかどうかも怪しい弟を背負っていた。


 少女は顔を腫らして、胸に掛けていた母親の形見と思しき物を震える手で笑顔で差し出してきた。


『へへ』


 笑いながら、お腹をグぅと鳴らす少女。


 その瞬間、私は私の口元が嫌悪感で引き攣ったのを初めて感覚として理解した。


 この子はなんで笑ってられるんだろう? この子はなんでこんな夜中に外を歩いているんだろう?


 分からない。


 ただ、私はこの世界が気持ちが悪いと思っていた。


『ここまで堕ちたか』


 何千年と生きてきたが、これほどまで度し難いことはあっただろうか。


 天使たちは知っているはずだ。


 子供は十六歳になるまでは食べなければ生きていけないことを。


 繁殖能力が著しく低い種族として、何よりも、子供は尊重しなければならない存在だということを。

 

 それなのに彼らは、自分たちが周りに助けてもらったことすら忘れて、物乞いをしている姉弟に手を差し伸べなかったのだ。


 きっとそう。


 じゃないと天使が本能で嫌う廃楽園に、こんな幼い子が来るなんてありえない。


 動機と理由におおよその見当がつくし、だからこそなおさら気分が悪い。


『くだちゃい。お願いです……ご飯を少しだけ……少しくだちゃい、お腹、減って、お願い』


『あぁ、もちろんだよ。それよりこんな時間に子供が外を歩いてたら危ないだろ? お母さんかお父さんはどうしたの?』


 欲望を失ったこの天界に、まだ子供がいたことは意外だった。だがそれはそれだ。


 柔和な表情で幼い少女の警戒心を解こうと笑顔で声をかけるが、メルフィに酷く怯える幼女はただ『ごめんなさい』と謝り続け、最後に小声で『おかあさん。あいたいよぉ』と涙を滲ませた。


 どう接すればいいのか分からず、メルフィが困った顔で首を傾げていると、偶然少女が差し出したアクセサリーが視界に入った。


『それをどこから?』


『えっと、これ、おかあさんの……おかあさんのくれたたいせつな、たいせつなものなの』


 胸元でぎゅっとブローチを抱きしめて切実に訴える少女に、メルフィは言葉を失った。


 なぜならそのブローチに――見覚えがあった。


 いや、見間違うはずがなかった。


『おかあさん!! 見てみて!! これ、ヴェルゼナ様が私のために作ってくれたの』


『そうか。よかったね』


  なぜならそれは――あの子が。この廃楽園を出て、初めて報告してくれた――。


『おかあさん!! 私、結婚するの。ここまで育ててくれてありがとう』


 この欲望を捨てた天界に子供がいることが不思議だった。


 しかし一人だけ――心当たりがある。


 神と結婚した少女。私が育てた天使の本質を唯一残した存在。 私の大切な――


『おかあさん?』『おかあさん!』『おかあさん――』


 網膜に焼き付いたウェディングドレス。


 最後にあの子が会いに来てくれた時、あの子のお腹にはすでに――新しい命が宿っていた。


 泣きながら物乞いをする幼女が一体誰の子供なのか。


 覗き込んだその顔が、あまりにも自分が育てた愛娘とよく似ていて、メルフィは堪らず涙を零した。


『よく……ここまで来たね。もう……大丈夫だよ』


 それがカナリア姉弟とメルフィの初めての出会いだった。



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