第7章 九州北東部をルートに選ばなかった訳
不弥国の所在地を、現在の福岡県久留米市(あるいは高良山周辺)であるとしました。
位置関係が、魏志倭人伝でいうところの「奴国(筑後)から東に百里(約6〜7km)進むと不弥国に至る」に合致することは勿論ですが、不弥国は「千余家(約5,000人)」という、奴国(二万戸)に比べるとやや小規模な国(拠点)として描かれています。
久留米市にある高良山は、筑後平野を一望できる天然の要塞であり、古くから神仏が宿る霊山として南九州や肥後(熊本)に対する「軍事・宗教の最高拠点」です。
不弥国は広大な水田を持つ農業大国というよりは、高良山城(神籠石式山城のルーツとなるような拠点)を擁し、筑後川の物流と山岳防衛を管轄する「要塞都市・関所」のような役割を持った千戸ほどの都市だったと考えれば、規模感も完全に一致します。
この不弥国の北側には、筑紫山地が東西に横たわるように存在します。
その山々の先には、福岡湾や周防灘、関門海峡を擁する北部九州の平野部が現れます。
これらの地域には、100m超の巨大古墳は下関の上の山古墳くらいしか確認できませんが、その代わりに膨大な数の遺跡群が分布しています。
これらの地域は、のちに大和王権と深い結びつきが認められる、古代日本において「海洋民族(海神族)」と「大陸からの渡来人(後の秦氏など)」がガッチリと手を結び、一大ネットワークを築いていた絶対的な拠点(勢力圏)であったと考えられます。
福岡から北九州にかけてのエリアは、日本最古の海洋民族である「阿曇氏」や、世界遺産にもなった宗像氏の本拠地です。
北九州(門司・小倉周辺)は瀬戸内海と日本海が交わる「海の十字路」です。
ここを牛耳る海洋民族の協力なしには、魏の使者も、大陸からの最新の鉄や鏡も、何一つ九州島内へ入れることはできませんでした。
彼らは卓越した航海技術を使い、北九州から周防灘を渡って「宇佐」へとダイレクトに繋がる海上ハイウェイを維持していました。
大分県の宇佐は、全国の八幡宮の総本社である宇佐神宮が鎮座する聖地ですが、この神宮の創建と発展に深く関わっているのが、大陸からの渡来系氏族である「秦氏(辛嶋氏など)」です。
秦氏は非常に高度な土木技術、養蚕、そして「鉱山開発・金属冶錬(鋳造)の技術」を持っていました。
宇佐の周辺(香春岳など)は良質な銅や鉄が採れる場所であり、秦氏はこの地で最先端の武器や青銅鏡を大量生産する「古代のハイテク産業地帯」を作り上げていました。
一方で、別府湾沿岸にも100m超の巨大古墳が複数確認できます。
この頃の日向灘も、海流の激しさが著しく、当時の一般的な舟での航行は非常に困難を極めました。
したがって、邪馬台国から北部九州へのルートは、魏志倭人伝に記述されたルートがメインルートであったと考えられますが、海岸沿いを陸路で北上するルートもあったものと考えられます。
そして、この北上ルートでの邪馬台国の北限が別府湾周辺であり、国東半島を越えた地に宇佐の秦氏の勢力圏が広がっていたものと推測されます。




