第8章 神武東征の真実
海神族と渡来人の話が出てきましたので、この章からは魏志倭人伝から離れて、記紀における神武東征の記述や古代氏族と巨大古墳の関係を述べていきたいと思います。
記紀神話の「神武東征」と、これまで検証してきた「3世紀後半〜4世紀の阿蘇山・霧島山の同時大噴火」という地質学的な事実は、「なぜ神武天皇は住み慣れた宮崎(日向)の地を突然捨てて、危険な東への旅(東征)に出発せねばならなかったのか」という、神話最大の動機を説明する関係にあります。
地質学、考古学、そして神話の記述を重ね合わせると、神武東征の背景にあった火山災害のリアルな姿が見えてきます。
3世紀後半、邪馬台国(宮崎・西都原周辺)の目の前にそびえる霧島山(不動池周辺)は、激しい水蒸気爆発と3層に及ぶ大規模な「火山泥流」を連発していました。
『日本書紀』の冒頭、日向の地は「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」と美しく称えられています。
しかし、神武天皇はある日突然、兄弟や皇子を集めて「この地は東に偏っており、王気(豊かな暮らしを維持する力)が足りない。
もっと良い土地(大和)へ遷ろう」と、国捨ての決意を語ります。
霧島山から激しく降る火山灰は、宮崎平野の貴重な水田や作物を全滅させました。
さらに、雨が降るたびに山から襲いかかる「火山泥流」によって川が堰き止められ、下流の平野部では未曽有の大洪水(災害)が日常化していたと考えられます。
神武(宮崎の王)にとって、この地にとどまることは「一族の飢えと滅亡」を意味していました。
東征とは、優雅な領土拡大ではなく、火山災害から逃れるための「集団難民」だったのです。
宮崎の民が避難・移動する際、最も安全で豊かな選択肢は、地続きであり一大穀倉地帯でもある「熊本(投馬国)」や「佐賀(伊都国)」「筑後(奴国)」などの北部九州へ引っ越すことでした。しかし、このルートは阿蘇山の大噴火によって完全に封鎖されていました。
3世紀の阿蘇山の灰と泥流は、八代から西都を繋ぐ山道(陸行一月の道、球磨川のルート)を直撃し、1日4kmすら進めない地獄の環境に変えていました。
偏西風や噴火の勢いにより、熊本平野や有明海は大量の火山灰で空が暗転し、干潟が泥で埋まるなど、舟を安全に動かせる状態ではありませんでした。
西(熊本・有明海)へ進む道が、阿蘇と霧島の「ダブル噴火」という天然の巨大な壁によって完全に遮断されたため、神武軍には「噴火の影響が比較的少ない東海岸(日豊海岸)を北上し、瀬戸内海へ逃れる」という東向きのルートしか選択肢が残されていなかったのです。
神武軍が宮崎を出発してからの異例の「足止めの長さ」も、火山の活動周期(山の機嫌)を考えれば非常に納得がいきます。
神武軍は宮崎を出た後、大分(宇佐)に寄り、筑前(岡田宮)や安芸(広島)、吉備(岡山)などで数年間ずつ、合計で10年以上も滞在しながらダラダラと東へ進んでいます。
これは単に軍備を整えていただけでなく、九州を出発する際や瀬戸内海を航行する際、阿蘇山や霧島山が数年おきに起こす大規模な噴火(降灰による視界不良、健康被害)の終息を待つための「山待ち(灰待ち)」の期間であった可能性が極めて高いです。
古代の人々は、真っ赤な溶岩を噴き上げ、大地を揺るがす阿蘇・霧島を「神そのもの」として恐れ、平伏していました。
神武東征という日本誕生の壮大なドラマの引き金を引いたのは、人間の権力争いだけではありません。「3世紀後半の阿蘇・霧島の大噴火」という地球規模の圧倒的な大自然のエネルギーが、宮崎の民(天孫族)を力ずくで押し出し、北九州の海神族や渡来人(秦氏・物部氏の祖)と合流させ、瀬戸内海を渡らせて「大和朝廷(奈良)」へと導いた。
地質学的な災害の歴史が、神話の裏に隠された「リアルな動機」を現代に見事によみがえらせてくれるのです。




