第6章 それ以上南下できなかった訳
投馬国は熊本平野にあり、八代あたりまでもその勢力範囲であったと述べました。
魏志倭人伝において、投馬国は「五万余戸」という、邪馬台国(七万余戸)に次ぐ倭国第2の大国として描かれています。
九州西海岸を南下した場合、これほど膨大な人口と一大勢力を養えるだけの広大で肥沃な平野は、筑紫平野の南であれば「熊本平野(有明海沿岸)」以外に存在しません。
また、熊本県北部の「玉名」は、かつて「当麻(たいま/とうま)」と呼ばれた地域を含んでおり、音韻(言葉の響き)の面から投馬国に比定されることがよくあります。
やはり、投馬国は熊本平野周辺で間違いないでしょう。
ところで、魏志倭人伝では邪馬台国の「南」に位置し、男王である「卑弥弓呼」が統治し、実力者として「狗古智卑狗」という官がいたと記されていいる、狗奴国という国があります。
邪馬台国(宮崎平野)の南にあり、邪馬台国に対立できる勢力とはどこか?
唐仁大塚古墳や横瀬古墳の100m超の巨大古墳を擁する、大隅半島の志布志湾周辺(東串良町・大崎町)であったと考えられます。
その他、鹿児島湾周辺にも大規模な遺跡群が確認できることからも、現在の鹿児島周辺には、強大な王国の存在がうかがい知れます。
それは、3世紀(弥生時代終盤〜古墳時代初頭)の日本列島において、南九州(鹿児島・宮崎南部・熊本南部)は、邪馬台国の影響下にあった北部九州や近畿とは全く異なる独自の強大な文化圏を持っていたことが、免田式土器という熊本県南部から鹿児島にかけて広く出土する、独特の幾何学模様が刻まれた土器や、地下式横穴墓のように、平地に穴を垂直に掘り、そこから横に玄室(部屋)を作る、南九州特有の強力な墓制などにみられるからです。
北部九州の文化を拒絶するかのように、この地域で独自に発達した文化があり、鹿児島県内の遺跡からは、この時期のものとしては驚くほど多くの鉄製の武器や工具が出土していることからも、邪馬台国と武力で対等に戦えるだけの軍事力(鉄器文化)を持っていたことが裏付けられます。
魏の使者が八代で上陸し、それ以上南下しなかったのは、前述のとおり球磨川や経路上の盆地の存在、阿蘇山・霧島山のダブル火山の噴火から逃れるという事情もありますが、敵対国である狗奴国と同盟国である投馬国、邪馬台国の国境線上をたどれば自然とそうなるということでもあると考えれば、至極納得のいくものであったと言えると思います。
また、魏志倭人伝に「常に戦争をしていたが、決着がつかなかった」と書かれているのは、火山の噴火が天然の国境(防衛線)となり、陸路が火山によって封鎖されていたからこそ、両国の戦いは主に「舟」を使った海上戦、あるいは険しい山を命がけで迂回するゲリラ戦にならざるを得なかったことが、お互いに決定的な一撃を与えられなかったからだという極めて面白い説明が成り立つと考えられます。
魏志倭人伝には、さらにその先として「侏儒国」や「黒歯国」が記述されています。
これらを種子島や屋久島、さらにはその南方の奄美、沖縄諸島と考えていくと、狗奴国が海の交易ルート(ルートの覇権)を握ることで莫大な富と勢力を築き、邪馬台国に屈しない独立性を保っていたと考えれば納得できると思います。
例えば、種子島の「広田遺跡」は、3世紀前後に全盛期を迎えた、日本屈指の特異な遺跡で、大量の「貝輪(ゴホウラ貝やイモガイで作ったブレスレット)」が発掘されることで有名です。
これらの美しい貝は沖縄やさらに南の海でしか獲れないもので、当時の北部九州や近畿の権力者にとって、最高のステータスシンボル(宝物)でした。
邪馬台国に対抗する軍事力とそれを支える富力は、このような観点からも見えてくると思われます。




