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第5章 ついに邪馬台国の所在地が明らかに

邪馬台国までの行程は最終局面を迎えました。


投馬国から邪馬台国まで南、水行10日・陸行1月。


投馬国(熊本市周辺)を舟で南へ出立した使節一行は、島原湾へと漕ぎ出します。

この頃、宇土半島はもう少し古い時代は島だったが、3世紀の時点では砂州などで九州本土とかろうじてつながる地続きか、非常に浅い海峡のような状態だった。

さらには、阿蘇山同様に3世紀ごろ(卑弥呼の時代)の霧島山は、阿蘇山に負けず劣らず、えびの高原の周辺を中心に極めて激しい火山活動期を迎えていました。

地質調査や産業技術総合研究所(産総研)のデータによると、ちょうど3世紀後半から5世紀前半にかけて、霧島連山のひとつである「不動池」とその周辺の火口が爆発的な噴火を繰り返していたことが判明しています。

海峡があればそこを、無ければ半島を大きく迂回して、水行10日をかけて直線距離で約40キロメートル、半島を迂回した場合は約80キロメートルを南下します。

ここでも、本来であれば2日程度の距離を10日もかけた理由、それは前述の阿蘇山や霧島山の噴火による影響があったことでしょう。

水行10日して上陸したのは八代市のあたりだったと推測されます。

なぜ南下をここでやめたのか?

そしてここで上陸したのか?

それは、大きな要因としてはやはり霧島山の噴火にあります。

これ以上南下すれば、激しく活動する霧島山に近づくことになります。

これは海上を行くにしても、陸路をとるにしても大きな障害となったことでしょう。

阿蘇山と霧島山の噴火の影響をできるだけ避けて、なおかつ陸路に切り替えた時、絶妙な位置にあるのが八代なのです。

当然ここは投馬国の影響下の範囲でもあります。

八代で上陸した使節一行は、球磨川沿いの山路(現代で言えば国道219号)で九州脊梁山地越えに挑むことになります。

このルートにはもう一つ大きなメリットがありました。

球磨川に沿って遡ると、やがて人吉盆地へ着きます。

険しい山地越えの山路にあって、人吉盆地はまさに砂漠越えのシルクロードにおけるオアシスのような場所でした。

人吉盆地からは、3世紀〜5世紀の非常に貴重な鏡(中国・呉の鏡とされる鍍金鏡)や、「免田式土器」が大量に出土する古墳群(才園古墳)が見つかっています。

さらにここから南下すると、国道221号が走る小林盆地にたどり着くことができます。

当時の人々は、できうるだけ通行が容易なルートを選んだはずです。

そう考えると、小林盆地を辿って、東へ向かったのは当然のルートであったと考えます。

勿論、これらのルート沿いの盆地には巨大古墳とまではいきませんが、それなりの規模の古墳群が存在しており、中継地としての繁栄を得ていたのでしょう。

小林盆地を抜けた一行は、最後の目印である大淀川上流に辿り着きます。

大淀川沿いを下って旅の最終目的地、邪馬台国がその眼下に見えてくることになります。

邪馬台国の所在地、それは宮崎平野の西部に存在する日本国内屈指の巨大古墳を含む大規模古墳群として有名な西都原古墳群です。

西都原古墳群は、数多くの巨大古墳や古墳群を擁する九州地方においても、日本全国の古墳群の分布においても、特筆すべき古墳群といえます。

九州地方だけで見てみても、北西部に集中する巨大古墳群の分布の中で、突如として南東部に独立して存在しているのです。

魏志倭人伝において、七万戸以上と記述される邪馬台国を支える土地として、宮崎平野はまさにうってつけの沃野であると言えます。

陸路の行程は、八代から西都原まで約120〜130キロメートル程度です。

この距離を1月で移動したとすると、単純計算で1日あたり約4キロメートルです。

水行のときにも推測した通り、あるいはそれ以上に陸路は当時非常に過酷な行程であったと考えられます。

前述のとおり、八代から西都へ抜けるには、九州の背骨である「九州脊梁山地」を東西に横断せねばなりません。

道なき原生林と険しいV字谷、標高1,000m〜1,700m級の未開の山々が連なり、途中の盆地を除けば、平地はほぼ皆無です。

深く切り立った谷(球磨川の上流)を何度も迂回、あるいは命がけで渡る必要がありました。

倒木を乗り越え、獣道をかき分け、崖をよじ登るような行程となるため、日の出から日没まで歩き続けても、直線距離では4kmほどしか進めない日が連続します。

ましてや、3世紀後半は、北の阿蘇山(中岳火口)と、南の霧島山(えびの高原・不動池周辺)が同時にアクティブな活動期を迎えていました。

八代から東へ進み、人吉盆地やえびの高原の北端周辺を通過する際、霧島山から噴き出した火山灰や、雨のたびに発生する「火山泥流ラハール」に行く手を阻まれるリスクが非常に高かった時期です。

噴煙による視界不良や、泥流で谷が埋まって通行不能になれば、天候や山の機嫌が回復するまで数日から1週間以上、その場で「山待ち」をせざるを得ませんでした。

実質的に動けた日数が1か月のうち半分程度だったとすれば、移動日ベースでの速度はもう少し上がりますが、総日数として「1か月」かかるのは当然の状況でした。

現代の車であれば高速道路やトンネルを使って約1時間半〜3時間の距離ですが、3世紀当時の「未整備の九州脊梁山地」+「阿蘇・霧島の活発な噴火活動」という条件下では、八代から西都への陸行に1か月を要したというのは、地質学的・地理学的な視点から見ても、これ以上ないほどリアルで説得力のある日数だと考えられます。


以上のように、全ての条件にリアルに合致する、魏志倭人伝の中で記録された邪馬台国の所在地は、宮崎平野において他に考えられないと断言できます。


まさに、「魏志倭人伝のテキスト」「3世紀の火山地質学」そして「古墳時代の巨大古墳の分布路」という3つの異なる証拠が、パズルのように1つのルート上で完璧に一致したと言えます。



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