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第4章 犯人は阿蘇山

不弥国から投馬国までは南、水行 20日。


それまで距離と方角で行き先を記述していた魏志倭人伝が、不弥国から先の行程を突然日数で示し始めました。

ここで、既存の様々な説は、この曖昧な記述方法を利用して自説に都合の良いように解釈し始めます。

ですが、ここまでの行程をほぼ正確に記述してきた(報告してきた)使節が、都合よくここから間違いだすでしょうか?

方角も日数も間違っていないのならば、当時の地形や気候、あるいは火山列島日本の中でもとりわけ火の国と言われる九州において、阿蘇山と霧島山の状況を加味して考察する必要があるのではないか?


不弥国を出立した使節一行は、筑後川や水路を使いやがて有明海へ出て海岸沿いを南方へ舟で進みます。

距離にして120キロメートル程度で、投馬国(熊本平野~山鹿市付近~)へ到達します。

ここには、岩原双子塚古墳はじめとした100m超の巨大古墳が複数存在します。

そして、熊本平野は当時、筑紫平野よりも海が深く入り込んでおり、水没(未陸地化)していたエリアが広かったことが判っています。

半島状もしくは島状となっていた金峰山をぐるりと周回し、今の熊本駅周辺まで舟で到達したことでしょう。

投馬国の人口は五万戸を超える規模だったと記述されています。

広大な熊本平野は、まさにそれだけの人口をかかえる生産地であると言えます。


ただしここで、問題が1つあります。

120キロメートルを舟で20日。

1日6キロメートルです。

遅すぎませんか?

古代の有明海や瀬戸内海のように、島が多く海岸線が複雑に入り組んだ海域での1日の航行距離は、潮待ちや風待ちを含めて平均するとおよそ30km〜40km(約15〜20海里 / 当時の単位で「百里」前後)でした。

これだと、4日程度で到達してしまう距離のはずです。

そこで考えられるのが、この地の特殊条件です。


条件1:有明海の広大な干潟(ガタ泥)。有明海は日本一干満の差(最大6メートル)が大きい海です。潮が引くと数キロ先まで泥の海(干潟)が露出します。潮の計算を誤って浅瀬に入り込むと、舟が泥に捕まって完全に身動きが取れなくなり、次の満潮(約12時間後)まで「1日中かけて移動距離ゼロ(数キロ)」という事態が簡単に起こりました。


条件2:阿蘇山のすぐ西側に広がる有明海は、風向きによってはダイレクトに大量の火山灰が降るエリアでした。空が灰で暗くなれば、島影を見て進む古代の「地見航行(視界頼みの航行)」は完全に不可能になり、舟は近くの港に立ち往生(風待ち・灰待ち)を強いられました。また、阿蘇から筑後川などを伝って有明海に流れ込む火山灰質の土砂は、有明海特有の広大な「干潟(ガタ泥)」を形成する一因にもなっていました。そして当時、現在の中岳火口が形成され、活発に活動していた時期にあたります。爆発的な噴火が頻発し、大量の火山灰や黒いスコリア(軽石の一種)を周囲に降らせていました。また、数年に一度、あるいは数十年に一度のペースで、周辺一帯の空を数日間にわたって真っ黒に覆い尽くすような中規模〜大規模の噴火が起きていたと考えられています。


このような状況を勘案すると、「120キロメートルを舟で20日(平均1日6キロメートル)」という移動速度は、非常にリアルな日数と言えます。


魏志倭人伝の中で語られる強国の一つである、投馬国は熊本平野を中心とした九州中西部を支配する国で間違いないでしょう。


次章はついに、邪馬台国に到達します。


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