第3章 古代の地形から紐解く
さて、伊都国(佐賀市周辺)から先の行程はどうなっているでしょう?
伊都国から奴国までは東南 100里。
前章で、施設一行が伊都国に到着して見た光景は、有明海から連なる湿地帯と述べました。
当時の海岸線は現在よりもやや内陸にありましたが、それほど違いはありませんでした。
ただし、縄文海進期(約6,000年前)で海の底(古筑紫海)であったのが、その後の海退傾向と土砂の堆積によって陸地化が進んでいました。
3世紀の弥生時代には現在の平野部の湿地帯では稲作が行われており、吉野ヶ里遺跡などの大規模な環濠集落が発展していたのです。
そして、九州最大の大河である筑後川は、3世紀時点ではまだ十分に開削されておらず、今よりも激しく曲がりくねって(蛇行)網の目のように分岐する自然流路でした。
そのような地形条件の中、それまで「水行」や「陸行」と付記していたのに、ただ単に「東南 100里」としています。
これは、網の目のように分岐する自然流路がある湿地帯(筑紫平野)を、徒歩や舟(水路)で南東(東南)へ移動すればということであり、その到着地点は岩戸山古墳などの100m超の巨大古墳を複数擁する久留米市中心部や筑後市周辺となる。
魏志倭人伝では、奴国の人口は二万戸とされており、まさに筑後平野を含む筑後川左岸の低湿地帯が最適の地形であると言える。
さらに、奴国の先を見てみよう。
奴国から不弥国までは東 100里。
ここでも「水行」や「陸行」と付記はありません。
ということは、同じような地形条件での行程ということです。
奴国(久留米市中心部)から東へ100里、自然流路がある湿地帯(筑紫平野)を徒歩や舟(水路)で行くと、巨大古墳である権現塚古墳をはじめとした古墳群を擁する不弥国(久留米市東部)へとたどり着く。
そこはちょうど、筑後川が山間部から広大な平野部へと流れ出たすぐの場所(要害の地)に相当する。
人口一千戸規模を誇る国の立地として、十分な条件を備えていると言える。
いよいよ次章からは、様々な説を悩ませる行程の記述に変化の解説をしよう。




