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第2章 みんな間違っている 素直になろう

魏志倭人伝に書かれている邪馬台国までの行程の内、末盧国までの行程は以下のようになっている。


帯方郡(ソウル付近)から狗邪韓国(金海~釜山付近~)まで水行 7,000余里、狗邪韓国から対馬国(対馬市)まで始度一海を渡る 1,000余里、対馬国から一大国(壱岐市)までまた一海を渡る 1,000余里、一大国から末盧国(唐津市付近および東松浦半島周辺)までまた一海を渡る 1,000余里。


現代の日本地図を見ても、壱岐島から海を渡って最も近い九州の地は東松浦半島であり、地形的にも唐津が天然の良港であることが判る。

唐津には100m超えの巨大古墳として久里双水古墳があり、九州の玄関口、末盧国の所在地として十分な説得力がある。

魏からの使節はここで九州の地に上陸したのち、いよいよ内陸へと進んだのである。

では、末盧国から先の行程をみてみよう。


末盧国から伊都国まで東南陸行 500里。

通説というか従来からいわれている畿内説や北九州説などのほとんどは、この段階でなぜか伊都国を末盧国(唐津市)から北東方向の糸島市としている。

その根拠は、「三雲南小路王墓」「井原鑓溝遺跡」「平原王墓」といった膨大な副葬品を伴う王墓の存在と地名の音韻が似ているからだという。

しかし、方角が決定的に違うし、そもそも遥か外国まで派遣された使節団が移動の際に最も大切な方角を誤るはずがないのである。

ある程度の規模の王墓が存在するからには、それなりの氏族の地盤であることは間違いないが、根拠としては薄すぎると言わざるを得ない。

それに、糸島へ行くには海沿いの非常に険しい山(二丈岳など)を越えるか、海を渡り直す必要がある。

わざわざ一度渡った海を逆戻りして、全く違う方角へ行くだろうか?

では、伊都国はどこにあったのか?

それは、素直に東南(南東)方向へ向かった先にある巨大古墳(船塚古墳)の所在地、佐賀市がその地に該当する。

唐津(末盧国)から「東南」へ向かって山を抜けると、そこには佐賀平野(佐賀市や神埼市、吉野ヶ里遺跡の周辺)が広がっており、その目先には有明海と湾岸沿いの湿地帯が目に入ってくる。

このルートは古くからの自然な陸路であり、方角も距離(五百里=約25km〜30km)もぴったり一致している。

伊都国には、他の国々を検察・監視する邪馬台国の重要機関「一大卒」が置かれ、常に魏の使者が滞在する「国際都市」だったと記録されている。

佐賀平野には、弥生時代最大級の環濠集落である吉野ヶ里遺跡をはじめ、3世紀当時、最先端の大陸文化(青銅器や鉄器鋳造技術)を持った巨大な遺跡群が密集している。

他国を圧倒し、外国の使者を国賓として迎えるための「外交・軍事の拠点(伊都国)」として、佐賀平野の勢力は十分すぎる資格を持っていると考えられる。

また、国際貿易港・玄関口としての末盧国の人口が四千戸とされているのに対して、広大な佐賀平野を擁する伊都国が一千戸とされているのは、生産拠点というよりは、いわゆる邪馬台国連合の政府出先機関の所在地としての性格が強かったのかもしれない。


邪馬台国までの行程を紐解く上で、最も重要な国である伊都国の所在地が確定したことで、いよいよ次の段階へと進みます。

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