第49章 日下部の系譜
山梨県(旧甲斐国)の「日下部」と、宮崎平野の古代豪族である「諸県君」、そして雄略天皇の歴史には、「髪長媛の血筋」と「ヤマト王権の地方支配・軍事ネットワーク」を媒介とした非常に深い直接的な繋がりがあります。
山梨市周辺(旧山梨郡可美里など)を本拠地とし、のちに「甲斐国造(地方長官)」となった一族は日下部直を名乗っています。
この「日下部」という名自体のルーツが、諸県君と直結しています。
仁徳天皇と、諸県君の娘である髪長媛との間に生まれた皇子・皇女は、それぞれ大日下王(大草香皇子)、若日下部王(草香幡梭姫)と呼ばれました。
雄略天皇の時代、自身の皇后となった若日下部王(髪長媛の娘)の生活を支えるための直轄労働集団(名代部)として、全国に「日下部」が配置されました。
山梨の日下部氏は、諸県君の血を引く「髪長媛の孫(若日下部王)」に奉仕し、その領地を管理した人々が現地で巨大化し、定着した一族です。
諸県君の拠点(宮崎平野)と日下部氏の拠点(甲斐盆地)には、「馬(軍馬)の育成」と「東国への軍事進出」という共通の国家任務もありました。
宮崎平野(西都原周辺)は日本最古級の馬形埴輪が出土するほどの先進的な馬の産地でした。
一方で、山梨(甲斐国)も後に「甲斐の黒駒」として全国に名を轟かせるほどの東国最大の軍馬・名馬の産地となります。
雄略天皇の時代、ヤマト王権は東国(関東・東北)の征服活動や朝鮮半島への出兵を強化していました。
王権は、もともと諸県君(宮崎)や渡来人・葛城氏が持っていた「優れた馬飼の技術や人員」を、日下部という直轄組織を通じて山梨などの重要拠点へ移植・展開したと考えられます。
山梨に日下部氏が確実に存在し、王権の拠点を維持していた証拠は歴史的に証明されています。
奈良の正倉院に伝わる714年(和銅7年)の織物(白絁)には、「甲斐国山梨郡可美里日下部……」という墨書が残されており、現在の山梨県山梨市には今も「日下部」の地名や駅名(日下部警察署など)がそのまま残っています。




