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第47章 邪馬台国を継ぐもの

霧島山や阿蘇山が荒ぶる2~4世紀を経て、東遷を果たした人々が大和王権を形作っていく中で、かつての邪馬台国があった宮崎平野の地で、その血脈をつないでいった氏族がいました。


宮崎平野の古代氏族としては、在地の首長層である諸県君(もろかたのきみ)という有力豪族が知られています。

諸県君とは、古墳時代の4世紀から5世紀頃を中心に、宮崎平野から日向国諸県地域(現在の宮崎県南部から鹿児島県の一部)にかけて強大な勢力を誇った古代日向の代表的な在地豪族(首長層)です。

『古事記』や『日本書紀』といった文献(記紀)にその名が登場し、南九州の豪族でありながらヤマト王権の中枢と極めて深い血縁・政治的結びつきを持っていたことで知られています。


たとえば、諸県君泉媛(いずみひめ)は、『日本書紀』の景行天皇18年の条に登場します。

景行天皇が九州南部の「夷守(ひなもり=現在の小林市周辺)」に巡幸した際、泉媛は大勢の部下を率いて大量の御食(みけ=食事)を献上して天皇を大いに歓待しました。

これは諸県君が早い段階から王権に協力的であったことを示しています。

また、諸県君牛諸井(うしもろい / 牛諸)は、応神天皇・仁徳天皇の時代に活躍したとされる有力な首長です。

そして、髪長媛(かみながひめ)は、牛諸井の娘で、日向国第一と称されるほどの絶世の美女でした。

その美貌が都まで伝わり、応神天皇に召し出されて上京します。

しかし、その息子の皇子(のちの仁徳天皇)も彼女に一目惚れしたため、応神天皇は髪長媛を仁徳天皇に譲り、彼女は妃となりました。


諸県君の本拠地は、現在の宮崎県国富町にある本庄古墳群の周辺だったと考えられています。

この周辺からは畿内(ヤマト王権の中心地)の手法で作られた前方後円墳が多く見つかっています。

また、日本最大級の巨大な帆立貝形古墳である「男狭穂塚(おさほづか)」と、前方後円墳の「女狭穂塚(めさほづか)」(ともに西都原古墳群)は、その圧倒的な規模から「諸県君牛諸井と、妃となった髪長媛の墓ではないか」という有力な説があります。

諸県君の服属と交流の結果、ヤマト王権の宮廷儀礼や重要な祭礼において「諸県舞(もろかたまい)」と呼ばれる独自の歌舞が披露されるようになりました。

これは、諸県君が単なる地方の地方豪族にとどまらず、王権の宮廷文化にまで大きな影響を与える特別な地位にあったことを証明しています。

また、応神天皇=宇佐=秦氏との関係も見逃せません。


諸県君の出自については、記紀神話(神話・文献)が語る「皇別氏族(天皇家の血筋)としての系譜」と、歴史学・考古学が示す「南九州の在地首長(隼人系・海神族系)としての実態」という2つの側面から見ることができます。

古代の系譜(國學院大學 氏族データベースなど)において、諸県君はヤマト王権の皇族を祖とする皇別氏族に分類され、「日向国造(ひゅうがのこくぞう)」と同族とされています。

始祖は、第12代 景行天皇の皇子である「豊国別皇子(とよくにわけのみこ)」が祖とされています。

豊国別皇子の孫にあたる「老男命(おいおのみこと)」の子が、仁徳天皇の義父となった諸県君牛諸井であると伝えられています。

この伝承に従えば、諸県君は「ヤマト王権から日向国へ派遣され、現地に土着・巨大化した一族」ということになります。

一方で、近年の歴史学や考古学の視点では、皇族が祖という伝承は「後世に王権への服属や親密さを正当化するために作られたもの(擬制系図)」であり、実際は宮崎平野に古くから根を張っていた在地の強力な首長層であったと考えられています。

九州の古い豪族や「多氏」、前述のとおり、宇佐国造との関係など、海洋交易や水神を祀る集団(海神族)との深いつながりも考えられます。

諸県君の拠点とされる大淀川・一ツ瀬川流域は、古くから対馬海流を利用した海上交通の要所でした。

諸県君の出自の最大の特徴は、「南九州の土着勢力でありながら、もっとも早くヤマト王権と血縁を結んだ点」にあります。

景行天皇の九州巡幸を歓待し、仁徳天皇に娘(髪長媛)を嫁がせることで、彼らは地方豪族でありながら、中央の王権から「天皇家の血を引く一族(皇別)」として格別の扱いを受ける地位を獲得したといえます。


そして、宮崎平野の古代豪族である「諸県君」と、当時のヤマト王権で絶大な権力を握っていた超名門豪族「葛城氏(かつらぎうじ)」の間には、5世紀の王権中枢をめぐる緊密な政治的・血縁的同盟関係、および南九州の利権をめぐる深い繋がりがあったことも注目されます。

諸県君の娘である髪長媛が仁徳天皇の妃となったことは前述の通りですが、当時の仁徳天皇の正妃(皇后)は、葛城氏の祖である葛城襲津彦(そつひこ)の娘・磐之媛(いわのひめ)でした。

磐之媛は非常に嫉妬深い性格として記紀に描かれていますが、諸県君の髪長媛に対しては、王権内での対立というよりも「葛城氏(王権トップの豪族)」と「諸県君(南九州トップの豪族)」が、婚姻を通じて天皇家に等しく影響力を行使し合っていた政治的連帯の構図が見て取れます。

地方の豪族が、中央の最高権力者である葛城氏と並ぶ形で天皇家へ娘を輿入れさせている事自体が、諸県君の尋常ではない格の高さを物語っています。

この裏に、邪馬台国の血脈を継ぐものとしての家格の尊さがあったのかもしれません。


諸県君と葛城氏の具体的な繋がりを裏付けるものとして、現在の大阪府東大阪市周辺にある「日下(くさか)」の地名が挙げられます。

髪長媛は上京した後、河内の「日下」に居住したと伝えられています。

この日下周辺は、葛城氏が管轄していた朝鮮半島からの渡来人集団や、先端技術(特に軍事的に重要だった「馬の飼育技術」)が集まる一大拠点でした。

宮崎平野(西都原周辺など)もまた、日本最古級の「馬形埴輪」が出土するなど、古代の馬飼文化が非常に盛んな土地でした。

このことから、「葛城氏が持つ先進の馬飼技術や渡来人のネットワークが、諸県君を通じて宮崎平野へともたらされた」、あるいは「共同で王権の軍事基盤(軍馬の育成)を支えていた」という深い技術的・経済的同盟関係が指摘されています。


考古学の面でも、諸県君の勢力圏にある宮崎の古墳と、奈良県の葛城氏の拠点(葛城山麓)の古墳には強い共通性がみられます。諸県君の墓とされる西都原古墳群の巨大前方後円墳「女狭穂塚」などは、畿内の王権中枢や葛城氏の大型古墳と極めて類似した設計図(墳形や築造技術)で造られています。

5世紀当時、最新の古墳設計技術はヤマト王権や葛城氏が独占していたため、宮崎にこれほど瓜二つの古墳が造られたということは、葛城氏から諸県君へ直接、技術者集団が派遣された可能性を濃厚に示しています。

5世紀後半、大悪天皇とも称された雄略天皇の暗殺・粛清(眉輪王の変など)によって、名門・葛城氏は中央政界から文字通り激しく滅ぼされてしまいます。

この「葛城氏の滅亡」のタイミングと呼応するように、宮崎平野における諸県君の勢力(巨大古墳の造営など)も急速に衰退・変化していきます。

諸県君は、中央での強力な後ろ盾であった葛城氏を失ったことで、ヤマト王権内での立ち位置の変更を余儀なくされ、その後は南九州の別の在地集団(のちの隼人諸集団)との関わりへと歴史の主舞台を移していくことになります。

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