第46章 横城遺跡の衝撃
別府湾は、邪馬台国が東へと勢力を拡大していくための「北端(最前線の港湾拠点)」として、近年考古学の世界で極めて重視されているエリアです。
これまで『魏志倭人伝』の記述をもとに、九州説と近畿説で激しく論争されてきた邪馬台国問題ですが、「大分・別府湾」という独自のパズルを当てはめると、その東西のネットワークの謎が鮮やかに氷解します。
古代の「豊国(とよのくに:大分・福岡東部)」、その首都(大貿易港)が別府湾にあったという説が古くから有力視されています。
対馬海流の荒波を避け、関門海峡を抜けて、穏やかで広大な瀬戸内海の入り口である別府湾へ滑り込むルートは、当時の航海技術から見ても時間的・地政学的に最も重要なルートです。
別府湾は、九州の西側(玄界灘)から見れば最も東(北東)の果てであり、ここを「邪馬台国連合の北端の巨大港」と捉えると、ここから一気に近畿(畿内)へと繋がる瀬戸内海ハイウェイがスタートすることになります。
別府湾の最奥部、大分県大分市に位置する「横城遺跡(大分川流域)」からは、卑弥呼が活躍した3世紀(弥生時代終末期〜古墳時代初頭)の、九州最大級の「クニの中枢」を示す生々しい遺物が大量に出土しています。
横城遺跡からは、地元の大分だけでなく、山陰(出雲)、近畿(大和)、吉備(岡山)、四国、そして九州西部の土器が不自然なほど大量に見つかっています。
これは、卑弥呼の時代に別府湾が「日本全国の船が集まり、物資を仕分けする巨大な交易センター」だったことを証明しています。
邪馬台国を支えた最強の軍事物資である「鉄」や、卑弥呼が魏の皇帝から贈られたとされる鏡(鏡の裏の朱)の原料となる最高級の「水銀朱」が、この別府湾の港を経由して大和(近畿)へと運ばれていきました。
邪馬台国、あるいは初期ヤマト王権が近畿で巨大な前方後円墳(箸墓古墳など)を築くことができたのは、別府湾を北端(東の出口)として瀬戸内海を自由に操った海人族の存在があったからです。
前章で見た、別府湾に並ぶ巨大古墳(小熊山古墳・亀塚古墳)は4〜5世紀のものですが、その地下には、3世紀の卑弥呼の時代から別府湾の海を支配していた海人族の強大な経済基盤がすでに完成していました。
だからこそ、後の時代(6世紀)になって、大和の三輪山からやってきた「大神氏(大神比義)」は、この別府湾の北端(大神郷・宇佐)の地をピンポイントで狙って上陸し、宇佐神宮を創ることで、邪馬台国の時代から眠る「海と鉄の超巨大利権」を国策として手中に収めたのです。
これで、古代史の旅はついに「邪馬台国(3世紀)」という全ての原点へと回帰しました。
島根の「出雲王国」や京都の「丹後半島」が日本海側の経済の王者であったように、大分の「別府湾」は、太平洋・瀬戸内海側から大和王権(日本)が誕生していくための、九州側の最も重要で最も尖った『北東のフロントライン(北端)』でした。
邪馬台国が九州から近畿へと東遷(あるいは連合)していくダイナミックな歴史の荒波の中で、別府湾はそのすべての物資と情報が通過する、古代の巨大な「心臓の弁」のような役割を果たしていたのです。




