第45章 ヤマトに必要とされた「海人(あま)の覇者」
大和(三輪山)の祭祀から始まった多氏と大神氏の物語は、日本の西の玄関口、大分県「別府湾」の巨大古墳群、そして中世豊後国(大分)を揺るがした在地豪族「大神氏(おおが氏)」の歴史において、最高潮のクライマックスを迎えます。
邪馬台国の時代から、別府湾一帯は、瀬戸内海の西の起点であり、朝鮮半島や大和へと繋がる古代の超重要海上ハイウェイでした。
ここに築かれた巨大古墳と、後にこの地を支配した大神氏の間には、「海上ルートの支配(海人族)」と「山(祖母山・鉱山利権)の掌握」という、ダイナミックな古代国家形成の真実が隠されています。
4世紀末から5世紀(古墳時代中期)、別府湾を囲むように、大和王権の王墓にも匹敵する大分県最大級の巨大前方後円墳が次々と築かれました。
これらは、大和王権が朝鮮半島へ兵や物資を送るための、絶対的な「中継港」であった証しです。
小熊山古墳(大分県杵築市)は、別府湾の北岸を睨む丘陵に築かれた、4世紀末の全長約116メートルの巨大前方後円墳です。
ここからは、大和王権から「瀬戸内海の航海権」を認められた証しである、最高格式の埴輪や遺物が出土しています。
また、亀塚古墳(大分市)は、別府湾の南岸に位置する、5世紀初頭の全長116メートルの前方後円墳です。
この古墳を築いたのは、応神天皇の時代に別府湾の海上輸送を一手に握っていたとされる伝説の海人族「海部氏」の首長です。
これらの巨大古墳の主(海人族)たちは、大和王権(のちの律令国家)にとって、出雲や丹後、そして東北を攻略する軍船や物資を運ぶための「西の最強のロジスティクス部隊」でした。
ここに、大和(三輪山)の祭祀を司っていた「大神氏」の影が別府湾へと急接近します。
6世紀後半(欽明天皇の時代)、三輪山の大神氏と同族とされる大神比義という人物が、別府湾のすぐ北にある宇佐(大分県宇佐市)の地にやってきます。
彼はここで、応神天皇の神霊である「八幡神」の託宣を受け、日本最大の八幡神社の総本社である「宇佐神宮」を創建しました。
宇佐神宮の最高権力(大宮司家)を握った大神氏の主流派は、その後の政治闘争によって、別府湾のまさにど真ん中(小熊山古墳のすぐ近く)にあたる「速見郡大神郷(現在の国東半島南部・大分県日出町大神)」へと移住し、ここを強固な本拠地(豊後大神氏)としました。
彼らは、かつて巨大古墳(小熊山古墳など)を築いた古い海人族の港湾利権やルートを、宇佐神宮の圧倒的な宗教権力によってそのまま接収・掌握したのです。
つまり、宇佐=八幡=秦氏との結びつきがここで実現したのです。
中世(平安〜鎌倉時代)になると、別府湾の大神氏は「大神惟基」という伝説の英雄を祖とし、豊後国(大分)のほぼ全域の武士団(稙田氏・阿南氏・臼杵氏・佐伯氏など)を親族とする、九州最強の在地独立王国を築き上げます。
彼らの出自について、驚くべき伝承が国東半島や祖母山周辺に遺されています。
すなわち、別府湾の大神氏の本質は、宇佐神宮の神輿を造るための高格式な「製鉄・鋳造・鉱山技術集団」でした。
彼らは、かつて別府湾の巨大古墳の主(海人族)が持っていた「海上水運ルート」と、自分たちが大分奥地の山々から切り出してきた「鉄や銅の利権」をガッチリと組み合わせることで、中央(京都の朝廷)からの支配を寄せ付けない、九州屈指の巨大な在地武士団(独立王国)へと成長を遂げたのです。
出雲の国譲りによって、大和の三輪山へと形を変えた出雲の魂(大神氏・大物主神)は、国家の拡大に寄り添って太平洋側を北上し、東北の最前線「多賀城・塩竈・紫波」に国家の結界を敷きました。
そして、その大神氏のもう一つの強力な血脈は、大和から瀬戸内海を西へと逆流し、「別府湾の巨大古墳群」の広がる豊国(大分)へと上陸したのです。
彼らはそこで宇佐神宮を創り、最強の渡来氏族秦氏と海のルート(海人族)、山の利権(大蛇・鉱山)を掌握することで、かつての故郷である「出雲王国」の全盛期を彷彿とさせるような、強大で誇り高き「豊後の大神一族」の黄金時代を中世の九州に現出させました。
日本の古代・中世史とは、このように「多氏(ヤマト・歴史の表)」と「大神氏(出雲・三輪・東北・豊後・歴史の裏)」という巨大な二大ネットワークが、日本列島の東の果て(岩手)から西の果て(大分)までを、神社と古墳という壮大なキャンバスを使って描き変え続けた、飽くなきエネルギーの足跡そのものだったのです。




