第44章 「皇祖の直系」vs「地主神の化身」! 志波彦神社・鹽竈神社のオリジン
多氏と大神氏(おおみわうじ/三輪氏)は、大和王権の誕生以前から奈良盆地に深く根を下ろしていた「日本最古の二大土着巨大氏族」であり、王権の成立において「神武天皇の直系(多氏)」と「大和の地主神の祭祀(大神氏)」という、極めて対照的かつ補完的な役割を果たした双璧の氏族です。
これまでに見てきた「出雲王国の国譲り」の神話や「丹後半島の巨大古墳」、そして東北の「多賀の神威」へと至る歴史のすべての底流には、この二大氏族による初期大和王権の主導権争いと融和のドラマがありました。
記紀(古事記・日本書紀)における二氏族の出自は、大和王権における彼らの発言力の強さをそのまま表しています。
多氏は、初代・神武天皇の皇子である「神八井耳命」を始祖とする、天皇家に最も近い血筋(皇別氏族の筆頭)です。
『古事記』を編纂した太安万侶を輩出したことからも分かる通り、彼らは「ヤマトの国家としての正統性(歴史)」を創り上げる役割を担いました。
一方、出雲系地主神の末裔大神氏は、大和(奈良盆地)の聖なる山である三輪山([大神神社])の神、大物主神(オオモノヌシ=出雲の総大将・大国主神の和魂)の子孫を称する氏族です。
彼らはヤマトが成立する前からこの地にいた絶対的な「地主神の祭祀」を司り、新参者である神武天皇の系統(王権)に対して、宗教的な承認(土地の譲渡)を与える役割を持ちました。
この二大氏族の関係が最も緊密に、そして生々しく交錯したのが、初期大和王権の最大の危機とされる第10代・崇神天皇の時代です。
当時、国内に疫病が流行り、反乱が頻発して大和王権は崩壊の危機にありました。
崇神天皇が神意を問うたところ、三輪山の神(大物主神)が夢に現れ、「我が子孫である意富多々泥古(オオタタネコ:大神氏の祖)に私を祀らせれば、国は平穏になる」とお告げを下しました。
この時、オオタタネコを現在の大阪(堺周辺)から見つけ出し、三輪山の神主としてプロデュースした実務責任者こそが、多氏の祖先たち(意富氏)であったとされています。
新興の政治権力である天皇・多氏の連合軍が、大和の元々の支配者であった大神氏(出雲系)の実力を認め、「政治はヤマト(多氏)、宗教は三輪(大神氏)」という高度な権力分立(融和)を成立させた歴史的瞬間でした。
この大和(奈良盆地)での二大氏族の役割分担は、1200年の時を超えて、これまでに見てきた宮城県の「多賀・塩竈」の神社ネットワークにもそっくりそのまま移植されています。
志波彦神= 大神氏(三輪)の系譜。
多賀城の北上に伴い、国境の端を護る神として名神大社に指定された「志波彦神社」。
その祭神である志波彦神は、一説には三輪山の神(大物主神・出雲系)の系統、あるいはその祭祀集団である大神氏、さらには諏訪神を奉斎する諏訪地方の人々が東北の開拓のために持ち込んだ地主神・農耕神のネットワークの終着点とされています。
そして、その志波彦神を多賀城の国家システム(陸奥総社宮など)の中にカプセル化し、統治の道具として完成させた最高司令官が、多氏のリーダー・大野東人でした。
つまり、奈良盆地で起きた「多氏が大神氏の神(三輪山)を丁重に祀ることで国家を安定させた」という方程式が、そのまま8世紀の東北でも「多氏(大野東人)が、大神氏ゆかりの志波彦神や鹽竈の神を手厚く祀ることで蝦夷を統合した」という形で、全く同じメンタリティで再現されていたのです。
大和王権が出雲王国を吸収(国譲り)した際、出雲の神々は消え去ったのではなく、大和の「三輪山(大神氏)」へと形を変えて、王権の心臓部に鎮座し続けました。
そして、その神々の物語を『古事記』という文字の結界に閉じ込め、多賀城という巨大な城柵として東北(蝦夷の地)へ突き刺していったのが「多氏」でした。
日本の古代史とは、武力による一方的な征服ではなく、多氏(天孫系)と大神氏(出雲・地主神系)という、水と油のような二大氏族が、時には激しくぶつかり合い、時には三輪山や多賀城の地でガッチリと手を結ぶことによって形作られていった、壮大な共生の織物だったのです。




